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第45話 6-7 【裸の付き合い】第二章【終わる日常】完結

「えっ……」


今は初夏、賢暦けんれき千二十年七月四日の夜。世界一幸福な魔法使い、サイカ・ワ・ラノの自宅に、勇者一行が引っ越して来た夜。


「あ……」


アヤメさんとルリさん、アリスの三人が温泉に向かった後、僕は鏡の森の住人たちへの挨拶に向かった。人間の気配に敏感な魔物もいて、対話が可能な魔物も多く住んでいるため、アヤメさんたちがしばらく居候することになったことを説明するためだ。


「……」


その中には話の長い魔物もいて、戻ってこれたのはまもなく日付が変わる頃だった。ザックはリビングで酔い潰れていたし、他の三人ももう寝ているだろうと思い温泉で一息ついていると、アヤメさんが現れた。


「……僕は隠しますからね」


岩場にかけておいたタオルを手繰り寄せ、仮面をつける。


「あ、その仮面ってお風呂場にも持って来てるのね」


「いつ、何があるかわかりませんから。……例えば風呂場で、勇者様に夜這いされたりとか」


「……ごめんなさい。身体洗っちゃうから、ちょっと待ってて」


アヤメさんは僕に裸を見られたというのに、喚くことも立ち去ることもせず、近くの岩場に腰を下ろした。やはり彼女に、羞恥心というものはないらしい。すでに裸に近い格好を、僕に何度も見られているからなのかもしれないけど。


「そうじゃなくて……。アヤメさん、いくら恋愛初心者と言っても、限度があります。こういったことはもう少し時間をかけて、段階を踏むべきです。今のアヤメさんは明らかに、先走り過ぎている。何をそんなに焦って……」


ふと、初めて女神に会ったときのことが脳裏をよぎった。アヤメさんに化けた姿で、告げられた言葉が蘇る。


「私は、四日後死ぬ」


あれから一日経った。残りは、三日。まさか、アヤメさんは……。


「アヤメさん、もしかしてあなたの命日がいつか、女神から聞いてるんですか?」


「……」


「……」


沈黙。それはつまり、図星のようだった。


「…………七月七日、だっけ?」


アヤメさんが、ぽつりと呟く。七月七日に彼女が死ぬ運命は、女神にも変えられないと女神は言っていた。だから僕が、変えなければならないと。


「知ってたんですね……」


「ラノ君も、女神様から聞いたのね」


「そう、ですが……」


「……」


アヤメさんが身体を洗っている間、僕は口を噤んでいた。


「隣、いい?」


僕の返事を待たず、アヤメさんは湯船に浸かる。彼女はあと三日で、恋人同士がすること全て、やり切るつもりなのだろうか。他にやるべきことなんて、いくらでもある気がするけど……。


「……僕が出ましょうか? と言いたいところですが、アヤメさんはルリさんたちと一緒に、もう入ったんじゃ?」


「そうなんだけど、ゆっくりできなくて……」


アヤメさんは僕のすぐそばに腰掛けると、うなだれたように俯く。しっとりと濡れた髪から、甘い石鹸の香りが漂ってくる。


「……アリスが何かしましたか?」


「いや、そうじゃなくて……ルリもアリスちゃんも魔族だから、私と一緒に入るとお湯から伝わる女神様の加護が、チクチクするみたいで……」


「ああ、なるほど……」


「ルリと会ってからは、マスターのところのシャワーしか使ってなかったから気づかなかったけど……女神様の加護で守られてる私は、ルリとは一緒のお風呂に入れないみたい。ルリとアリスちゃんは同じ魔族だから、洗いっこもできたみたいだし……」


「そうですか……」


「人間のラノ君は、私とお風呂に入っても何ともないでしょ?」


「……まぁ、そうですね」


アヤメさんは肩までお湯に浸かり、大きく伸びをした。仮面をつけているから何とかなってはいるが、普通の人間の男なら異常をきたす状況だ。


「……アヤメさんは、本当に僕のことが好きなんですか?」


いや、こんなことを口走っている時点で、正常ではなかったのかもしれない。対してアヤメさんは、いつもの調子のまま夜空を見上げる。


「……最初はね、ルリの支えになってくれたら良いなって、思ってた。私がいなくなったら、一番心配なのはルリだったから」


「……」


私がいなくなったら……。彼女は最初から、自分の死ぬ日が決まっていることを、受け入れていたらしい。


「でも、ルリにも学校で友達ができたし、ザックさんとも仲良くなれそうだったし、大丈夫かなって」


「え」


ルリさんはさっき、初対面でザックの廃棄処分を望んでいた気がしたけど……。


「失礼ですが、ルリさんとザックの相性は最悪かと。それにアヤメさんも、ザックのことは信用しないほうが身のためですよ」


「でも、ラノ君と一緒に暮らしてるんだし、悪い人じゃないんでしょ?」


アヤメさんの肩が僕の肩に触れ、彼女の温度が直に伝わってくる。


「……」


僕のことをそこまで信用してくれる理由。例えばそれは、僕のことが好きだからという理由だけで、片付けられるものなのだろうか。……わからない。だから聞きたくて、話を戻す。


「ザックとアリスには、昔命を救われた借りがあるだけです。本質は、気まぐれな魔族でしかない。その気になれば……あなたの命を奪うことだってできる」


「……」


「……」


「……死ぬのは、怖くない」


触れていたアヤメさんの肩が、僕の肩にさらに強く押しつけられる。その緊張が、嫌というほど直に伝わってくる。


「そう、ですか……」


「でも…………でも、もうみんなと会えなくなるのが、ずっと怖くて……! みんなから、忘れられちゃうのが、私……!!!」


水飛沫を上げアヤメさんが立ち上がり、振り返った。水面が揺れ、彼女の輪郭が不安定に揺れ動く。


「私のこと、ラノ君もいつか忘れちゃうと思ったら、怖くて……! 忘れてほしくないから……! だから……!!!」


僕のことを押し倒す勢いで迫るアヤメさんの両肩を、両手で支える。その弾みで仮面が外れ、湯船の中に沈んでいく。


「アヤメさん、落ち着いて」


「っ……!」


「深呼吸です。ゆっくり、吸って……」


アヤメさんが、身体を震わせながら肩を上下させる。その肩から早く手を離してあげるべきだと思うが、僕は掴んだまま離せなかった。今手を離したら、アヤメさんがそのまま、湯船の中に消えてしまう気がしたからだ。


「……そう、上手ですよ」


ふと、喫茶店でマスターにカップル扱いされ、僕がむせたときのことを思い出す。あのときは僕のほうが、アヤメさんに背中をさすってもらったっけ。


「……ごめんなさい、取り乱して」


「いえ……僕のほうこそ、すみません。僕はアヤメさんの苦悩に、気づけなかった」


アヤメさんは落ち着きを取り戻したようで、僕から顔を背けた。慌てて肩から両手を離そうとすると、片方の手を掴まれる。


「ラノ君……私、どうすれば良かったのかな」


「良かった……?」


「もっと私が強かったら、笑顔でさよならが言えたのかな……」


僕の右手が、弱々しく握り締められる。死んで、みんなから忘れられるのが怖い。それでも彼女は、自分の死をどうにか受け入れようとしているようだった。……でも。


「さよならを言う必要はありません」


「え……」


僕は左手で、彼女の手を強く握り返す。濡れた彼女の細い指が、僕の指と絡まり合う。


「確かに女神にも、アヤメさんの命日は変えられないのかもしれない」


「……」


「でも僕は、この世界を支配する、三人目の魔王になるかもしれない……魔法使いだ」


……そして。


「世界一幸福な魔法使いで、勇者様の完璧な配下で、傲慢で、アヤメさんの狂信者」


だから……!


「そんな僕が、アヤメさんをそう簡単に死なせるわけない。僕のことを置いて死なせはしない。それが条件で……僕はあなたのパーティーに入った。初めて会ったとき、言いましたよね」


「ラノ君……」


「本当に僕のことが好きなら、女神なんかじゃなくて、僕のことを信じてください。アヤメさんのことは忘れないし、死なせない。アヤメさんのその綺麗な肌が、おばあちゃんになってしわくちゃになるまで……絶対、死なせない」


なぜかこの瞬間、僕の視界がぼやけた。なぜか僕のほうが、泣いていた。


「……ラノ君、肩、ちょっと痛いかも」


いつのまにか僕は、アヤメさんの両肩をまた握り締めていたようだった。落ち着きを取り戻しこの状況を理解し始めていたアヤメさんが、両腕を交差させ身体を捩る。


「あ、ごめん、なさい……」


僕は慌てて手を離し、涙を拭った。そして落ちた仮面を探そうと視線を下げたとき、アヤメさんが僕のほうに倒れ込んできた。


「え……」


いや、どうやら違った。どうやら彼女は、僕の頬に口づけをしたようだった。咄嗟に顔を上げると、目と鼻の先でアヤメさんが微笑む。


「ありがと、ラノ君……」


そして湯船から飛び出すと、今日からアヤメさんとルリさんの部屋となった離れのほうへと駆けていく。


「……」


アヤメさんの唇の感触と、涙の跡が残った頬に手を当てる。ぐちゃぐちゃになった感情の整理がつかず、僕はしばらく放心状態だった。


「僕は……」


僕はアヤメさんの、死にたくない理由ではなく……生きていたい理由に、なれたのだろうか。




第二章【終わる日常】完結


勇者アヤメの死まで、あと三日。

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