ヒメナの家の近く。
ユズナは、兄の口から久しぶりにその人の名前を聞いた。
その言葉を口にしたとき、兄は独り言か、ユズナに言っているつもりだったのだろう。
ナノカが彼女のことを知っているはずはなかったからだった。
ヒメナというのは、兄が高校生のときに仲良くしていた、同じ高校でクラスメイトだった女の人のことだった。
兄がその人と付き合っていたかどうかまでは、ユズナは知らない。当時は知りたくもなかった。
ユズナは兄とは年が7つも離れていた。
彼女は今年17歳になるが、兄は24歳になる。
兄が17歳、ユズナがまだ10歳の頃に仲良くしていたのが、そのヒメナという女の人だった。
大人っぽくて綺麗で優しい人だったけど、当時はその人に兄を取られたような気がしてあまり好きじゃなかった。
きっと今はもっともっと大人の女性になってるんだろうなと思った。
兄は本物のプロモデラーと違い、ギフトを使って組み上げたプラモデルをフリーランスで月に2~3個納めるだけだから、社会人経験などないようなものだった。アルバイトもしたことがなかった。
だからこそ、いつまで経っても少年の心を忘れない、ユズナの大好きな兄のままでいてくれるのだけど。
「お兄さん、姉のことを知ってるんですか?」
ナノカの言葉に、
「「え?」」
ユズナと兄は驚かされた。
「そのヒメナさんが、鶴房ヒメナ(つるぼう ひめな)のことなら、わたしの姉ですけど……」
「え? 姉? そっか、苗字が同じだもんね……それも、結構珍しい苗字……」
兄は納得していたけれど、ユズナはヒメナさんの苗字を知らなかったし、複雑な気持ちにさせられた。
またふたりに接点が出来てしまうかもしれない。
そんなことを思ってしまったからだった。
ユズナは記憶の奥底にしまいこんでいたヒメナさんの姿を思い出した。
長い黒髪がとても綺麗で、瞳の色は赤かったと思う。肌の白いナノカと違って彼女の肌は健康的な色をしていた。
背は今のユズナと同じくらいだっただろうか。もう少し高かったかもしれない。
頭の中に浮かんだその姿は、ナノカを少し大人っぽくしたようで、髪や瞳や肌の色は違うけれど、顔の作りはほとんど一緒だった。
よく家に遊びに来ていたヒメナさんがどうしてある日突然、遊びに来なくなったのかはわからない。
ひどい喧嘩をしたのか、実は付き合っていて別れたのか、そのどちらかか両方だと思っていた。
あれから7年が過ぎていたけれど、兄の友達の女の子が家に遊びに来ることは一度もなかった。
兄は今でも、彼女のことが忘れられず引きずっているのかもしれなかった。
だけど、よくよく考えてみれば、今の兄は妹のスクール水着を着て、ニーハイまで履いた、ただのヤバい人だった。
だから、ふたりの間に「焼け木杭に火がつく」ようなことはなさそうだった。
「あれ? もしかして、ユズナちゃんのお兄さんのお名前って、ユイトさん? ですか?」
ナノカは、運転席と助手席の間に身を乗り出すと、兄の横顔と、ルームミラーに映る兄の顔を交互に見比べた。
「やっぱりユイトさんだ! わたしとも前に会ったことありますよね? 覚えてますか?」
ユズナがヒメナさんのことを知っているのだから、ナノカが兄のことを知っていてもおかしくなかった。
「そういえば、会ったことあるかも……」
「ユイトさんは、わたしの初恋の人だったんですよ」
今度は当時のヒメナさんを幼くしたようなナノカに、また兄を取られてしまうかもしれない。
ユズナは不安でたまらなくなってしまった。
ナノカを家まで送った別れ際、
「ヒメナは……お姉さんはその後どう?」
と、兄は彼女に訊ねた。
「相変わらずです。筆談とかタブレットを使って意思の疎通ができるようになったり、うちの両親やわたしが一緒なら車椅子で外出することもできますけど、基本寝たきりで、前みたいに歩いたり、走ったり、飛び回ったり、そういうことは無理みたいです」
7年前、ヒメナさんがある日突然遊びに来なくなったのは、自転車でうちに向かっている途中、信号無視をした車にはねられたからだった。
ヒメナさんやナノカの両親には、高額な医療費を払える収入がなく、早々にヒメナさんの尊厳死を選ぼうとしていた。
尊厳死は、病気や老衰などで生命の維持が困難な場合に、延命治療を断って自然な死を迎えることのことだ。
患者や家族、医師が話し合って個々に決めていくものであり、尊厳死を望む場合は、家族と意見を合わせることが大切だとされていた。
植物状態の患者の延命治療を拒否する場合、家族が判断することになる。本人の意思確認ができないためだ、
ヒメナさんの事故は、兄の人生を大きく変えた。
本当は大学に行くつもりだったし、プロモデラーになる気もなかったという。ギフトを使って製作したプラモデルで商売するのは、本物のプロモデラーに失礼だと思っていたからだった。
けれど、彼女の両親が尊厳死を選ぼうとしているのを知った兄は、ギフトを使って作ったプラモデルで稼ぐことにしたのだという。
兄はプラモデルを月に2~3体納めているだけだと聞いていたけれど、それはあくまで自分の生活や、両親の老後のため、それからユズナの学費のためであり、それ以外に月に10以上のプラモデルを納めていたらしい。
もちろん、ヒメナさんの高額な医療費を支払うためだった。それだけでなく、ナノカの学費まで払えるだけの額を、毎月彼女の両親に振り込んでいたらしい。
ヒメナさんは何年も植物状態になっていたらしく、3年ほど前に目を覚ましたけれど、意志疎通ができる状態ではなく、記憶障害があり兄のことを全く覚えていなかったらしい。
それでも兄は彼女の医療費を払い続けていたし、これからも続けていくという。
そのことを兄がユズナに伝えなかったのは、きっと兄なりの優しさだったのだろう。
当時のユズナは、ヒメナさんのことをあまりよく思っていなかったから、そのせいで彼女が自分のことを責めるようになるかもしれないと兄は考えたのかも知れなかった。
中等部の入学式ではじめてナノカを見かけたときから、ユズナはずっと彼女と友達になりたいと思っていた。
せっかく友達になれたし、連絡先を交換することも出来たのに、ユズナの気持ちはすごく落ち込んでいた。
兄とヒメナさんが付き合っていたことは間違いなかったし、兄は人生をかけて彼女のために生きようとしていることを知ってしまったからだった。
きっと、事故にあったのが彼女ではなく、ユズナであったとしても兄はきっと同じことをしただろう。
だけど、それは家族だから、兄妹だからに過ぎない。
兄が生涯愛する女性はヒメナさんだけなのだ。
わたしもいい加減お兄ちゃん離れをしないといけないんだな、とユズナは思った。
眠れないまま朝を迎えたユズナは、また夏服のセーラー服に袖を通すと、違う違うと慌てて脱ぎ、昨夜のうちに洗濯をして浴室乾燥していたスクール水着を取り込んだ。
けれど、兄が着たせいでスクール水着はやっぱり伸びきってしまっていた。特に肩紐の伸びがひどく、肩から左右にべろんと垂れてしまって、まるで脱がせてくれと言わんばかりになってしまった。
ユズナはその日も学校を休むことにした。
一応、中等部時代のものがあったから、着てみることにしたけれど、最後にそれを着たのは2年近く前のことだった。
背もだいぶ伸びていたし、胸も大きくなっていたからサイズが合わず、数分着ているだけで気分が悪くなるくらい体が締め付けられてしまった。
学校への送り迎えは兄に頼んでいたし、ナノカも一緒にという話になっていたから、ふたりには事情を説明し、週明けから学校に行くことにした。
ナノカからは、
「じゃあ、わたしもそうするね、月曜日の朝のユズナちゃんのスクール水着、楽しみしてるね」
と、メッセージの返事が来た。