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第8話

 テレビの中で繰り広げられる不毛な会話に、ユズナもナノカも呆れてしまった。


――ペニシリンを発見したのは、イギリスの細菌学者アレクサンダー・フレミングでしたが、では、どうして1928年まで発見されなかったのでしょうか? 当時から常識の範囲内であったなら、ペニシリンはもっと早く発見できたのでは?


――ん? おかしいですね。日本では江戸時代にはもうペニシリンが発見されていたはずでは? 確か幕末に、南方 仁という脳外科医が……



「あ、やっちゃった」


「うん、やっちゃったね。この人、もう恥ずかしくてテレビに出れないよ。タイムトラベルものの時代劇と、実際の歴史がごっちゃになってるくらいだもん」


「社会学者だから専門外だったって言えば済むのかな? 済まないよね」


「間違いなく、今日からネットのオモチャだね。昔よく言われてたような、現実と虚構の区別がつかない犯罪者予備軍扱いかな」


「変な歌とか動画とか作られまくっちゃうんだろうね」


 少しだけかわいそうだったけれど、テレビに専門家やコメンテーターとして出演している以上、今日じゃなくてもこの人はいつかきっとこういうことになっていただろう。だから仕方なかった。



――そうですか……仁先生が実在の人物とは知りませんでしたブフー。


 司会の志倉さんは耐え切れずに笑ってしまった。

 アシスタントの女性アナウンサーも、他のコメンテーターの人たちも、必死で我慢していたようだったけれど、一番笑っちゃいけない人が一番に笑い出したせいで、皆一斉に噴き出してしまった。


――失礼な人たちですね。一体何がおかしいんで……あれ? 仁先生……? あ! あーーッ!!


 國川という社会学者が気づいたときには、すでに何もかも遅かった。

 SNSはお祭り騒ぎになっていたからだ。


――ペニシリンの件はさておきですねブフー、礒本(いそもと)さんは、今回の件についてどうお考えですか?


――城南大学医学部の村角龍(むらずみ りゅう)、村角陽貴(むらずみ はるき)両教授は、医学的根拠に基づいて今回の学説を発表されたはずでブフー。わたしはスクール水着やニーハイソックスに予防効果があると考えていますよ。医学的根拠がある以上、デマだと仰っている國川さんの発言こそが、国民を惑わせるデマなのではないでしょうか。


――なるほど。わたしもそう考えております。


――馬鹿らしい。志倉さんはともかく、礒本さんはもっと審美眼というものを身に付けられた方が良さそうですな。


 日本中の視聴者が、今同じことを思っただろう。

 お前が言うなと。


――上浪さん、現在SNSでのトレンドにはスクール水着やスク水、スク水というのはスクール水着の略称のようですが、それからニーハイソックスやニーハイというワードで埋め尽くされているとのことですが。


 それはほんの数分前までの話で、今は「國川」「社会学者」「ブフー」などがトレンドを独占していた。


――はい、現場の上浪です。一昨日、A県の私立温水女学園が、小等部から高等部までの12学年、全生徒1800人やその保護者に対して、昨日からの制服を学校指定の夏服ではなくスクール水着に変更することを発表しました。それがSNSを通じて瞬く間に拡散されたことにより、学説の信憑性が爆発的に全国に広まったと思われます。


――温水女学園に通う女子生徒たちの中には盗撮等の被害に遭った方もいらっしゃるようですが……



 ユズナは、スマホでSNSのアプリを開いた。

「#温水女学園」で調べてみると、顔見知りの生徒たちの盗撮写真がアップされていた。

 写真をまとめたサイトまであり、そのトップには悪役令嬢・谷塚リオ(やつか りお)の写真が使われていた。


「昨日、学校行かなくて良かったね。ナノカちゃんが盗撮されてたら、『10万年にひとりの美少女』だって今頃大騒ぎになってたかも」


 ナノカにスマホの画面を見せながらユズナがそう言うと、


「『10万年にひとりの美少女』は、ユズナちゃんの方でしょ? でも、行かなくて本当に良かった」



――ユズナちゃん、これは昨日、わたしを助けてくれたお礼だよ。



 ナノカはそう言って、ユズナにキスをした。


 あまりに突然のことで、ユズナには一体何が起きたのかわからなかった。

 頭の中が真っ白になり、テレビの中のお馬鹿な人たちの会話が聞こえなくなるくらいだった。


 それは、ユズナにとって、はじめてのキスだった。


 唇が離れると、彼女はユズナを抱き締めた。


「ねぇ、ユズナちゃん、一度も同じクラスになったことがなかったのに、どうしてわたしがユズナちゃんの名前を知ってたかわかる?」


 急にそんなことを訊かれてもユズナにはわからなかった。

 兄から自分のことを聞かされたり、写真を見せられたことがあったのだろうか。


「わたしの初恋は確かにユイトさんだったけど、4年前に中等部の入学式ではじめてユズナちゃんを見かけたときに2回目の恋をしたからだよ。そのときからずっと、ユズナちゃんと仲良くなりたいって思ってたんだ」


 まさか、ユズナちゃんがユイトさんの妹だったなんて思いもしなかったけど、とナノカは笑った。


「わたしも同じ日に、ナノカちゃんと仲良くなりたいって思ったよ」


 あの日、ナノカと一度だけ目が合った。

 そのとき、ユズナは本当にそう思った。


「あの日、一度だけ目が合ったよね。ほんの一瞬、何秒かだけだったけど。あのときにね、そう思ったんだ」


 ユズナが考えていたことと、全く同じことをナノカは言った。


「でも、ユズナちゃんは、今でもお兄さんのことが好きなんだよね?」


「うん……」


「わたしがユイトさんのこと、お兄さんのこと、忘れさせてあげる」


 テレビを消して、ふたりは何度もキスをした。

 ユズナには何度目からかはわからなかったけれど、途中から舌を絡ませる大人のキスになっていた。


 ナノカはその後、ユズナの胸を揉んだり、スクール水着を脱がせたりした。

 ユズナも同じことをナノカにした。


 そういうことは兄としたかったはずなのに、同性同士だというのに、ユズナは不思議と嫌な気持ちにはならなかった。

 相手がナノカだからだと思った。


 相手がもし、ユズナがひそかに悪役令嬢と呼んでいた谷塚リオだったら。

 なんて、考えただけでもおぞましかったから。



 小一時間後、ふたりはユズナのベッドの上で裸で抱き合っていた。

 ふたりはベッドの上でいろいろなことをした後、いろいろな話をした。


「お姉ちゃんもね、ギフトを持ってたんだよ。病気や怪我を治療するギフトだったの」


 ギフトというものは、どうやら遺伝するものらしい。

 ユズナの両親や兄もギフトを持っているように、ナノカの姉だけでなく、両親もギフトを持っていたそうだった。



 ナノカは生まれたばかりのとき、心臓に欠陥があったという。

 主治医は、この子は2歳まで生きられるかどうかわからないと言い、少しでも長く生かせるためにはとにかく泣かせないでくださいと言ったそうだった。

 まだ赤ん坊の彼女が泣くと、小さな心臓の鼓動が早くなってしまい、欠陥を抱えた心臓に大きな負担をかけることになるからだった。


 彼女が泣き始めたらすぐにあやして泣き止ませる必要があったため、彼女の母はほとんど眠ることもできず、ふたりとも日に日に衰弱していったという。


 しかし、ある日突然、ナノカの心臓の欠陥はなくなり、母の寝不足や過労から来ていた体調不良も改善した。

 それが何故なのか、当時は主治医にも彼女の両親にもわからなかったそうだ。

 数年後のある日、料理中にひどい火傷を負ってしまった母親を、ヒメナさんが手をかざすだけで治したことがあったらしく、ナノカの心臓の欠陥や母の体調不良を治したのも彼女だとわかったらしかった。


「ユイトさんね、高校の体育の授業でバスケットボールをしたときに突き指をしたことがあったんだって。その頃、お姉ちゃんとユイトさんは席が隣で、黒板をノートに写すのが大変そうだったから、突き指を治してあげたんだって。それがきっかけでふたりは仲良くなったみたい」


 ユズナの兄はスポーツが苦手だった。特に球技の才能が壊滅的だった。

 父がキャッチボールを教えてくれなかったからだと兄は言っていたけれど、同じ環境で育てられたユズナは体育の授業でするような球技は無難にこなせていたから、たぶん父のせいではなかった。


 体育の授業がある日、兄がよく足を捻挫したり突き指したりして帰ってきていたことを思い出し、昔から本当に世話が焼ける人だなと思った。

 今でもそれは変わらない。


 ユズナは、兄のことを自分がそばにいないとダメな人だと思っていたのかもしれない。

 兄妹愛と母性愛のようなものが彼女の中で複雑に混じり合い、それを恋だと勘違いしてしまっていたのかもしれなかった。

 だから、兄がヒメナさんを初めて家に連れてきたとき、自分じゃなくてもよかったんだと気づかされ、子どもを取られた野生動物の親のような気持ちになったのかもしれなかった。


「ユイトさん、すごく喜んで、これで今日もプラモデルが組み立てられるっておおはしゃぎしてたんだって」


 初めて聞く話だったけれど、兄がはしゃぐ光景も見慣れていたから、ユズナには簡単に想像できた。

 昔からはしゃぎやすく、調子に乗りやすい人だったから。

 だから、そんな兄が7年もヒメナさんのことを想い続け、高額な治療費やナノカの学費まで払い続けていたことを知ったときは、本当に意外だった。


 兄はきっとそのとき、たったそれだけのことで恋に落ちたのだろうということや、自分にも不思議な力があることをヒメナさんに話したのだろうということも容易に想像がついてしまった。


 ヒメナさんのギフトはまるで神話や伝説の中の登場人物みたいだな、ユズナがそんなことを考えていると、


「皮肉だよね」


 と、ナノカは笑った。


「皮肉って?」


「お姉ちゃんのこと。他人の病気や怪我だけじゃなくて、自分の病気や怪我だって治せる力を持ってたのに、車に轢かれて植物状態になっちゃって、何年も経ってようやく目を覚ましたときには、記憶障害のせいでギフトが使えなくなってて……」


 そういうことかと、ユズナは納得した。確かに皮肉な話だった。


「赤信号を無視してお姉ちゃんを車で轢いた人ね、留置場で変死したんだ。自殺とかじゃなくて変死。死因がわからなくて、心不全ってことになってるみたいだけど」


 刑務所でも拘置所でもなく留置場ということは、警察の取り調べの期間中、検察に引き渡される前に変死したということだろう。


 テレビや新聞、ネットニュースなどで誰かの死が心不全として報じられる場合、死因がわからないか、視聴者に死因をわからせたくないことが多いという話は何かで読んだことがあった。

 人は最終的に心臓が止まって死ぬから心不全ということになるのだという。


 最近は、有名人や著名人の自殺も心不全として報じられるようになっていたけれど、「命のダイヤル」の電話番号が表示されているかどうかが自殺か自然死かの判断基準なんだろうなとユズナは勝手に思っていた。


「その人ね、自称運送会社勤務って報道されてたけど、勤務履歴はなかったみたいなんだ」


 ヒメナさんを轢いた男が変死したことを不審に思った兄は、探偵に調査を依頼し、ヒメナさんの両親に手紙で報告していたらしく、その手紙をナノカは読んだことがあったらしかった。


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