目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第11話

「ナノカちゃん、スマホにメモをするんだよね? 乗り物酔いはする方? 車を出しても大丈夫?」


「大丈夫です。三半規管はめちゃくちゃ弱い方ですけど、わたしのそばには三半規管を強くしてくれる頼もしい子がいるから。フリック入力も苦手だけど、鬼早くしてくれるんだよね?」


 そう言って、ナノカはユズナの顔を見て笑った。

 もちろん、とユズナは笑い返した。


「よし、じゃあ、車を出すよ。ふたりともシートベルトはちゃんとしてね」


 ユズナはすぐに彼女の三半規管やフリック入力のスピードをマイナスからプラスにした。

 兄はルームミラーでふたりがシートベルトをしたことを確認すると、車を出した。


「お兄ちゃん、ナノカちゃんの家に着いたらでいいから、お兄ちゃんにもしてほしいことがあるんだ」


「ん? 何?」


 ユズナは兄にも協力してもらうことにした。

 これからしようとしていることがもしダメだったとき、もうひとつだけ試してみたいギフトの使い方があったからだ。

 兄は車の運転があまり得意じゃなかったし、ヒメナさんに命の危機が迫っているわけでもない。

 1分1秒が惜しいと言っても、実際にそこまで急いでいるわけではなかったし、兄の力が必要になるのはあくまで補欠のような案だったから、ナノカの家に着いてからでよかった。


「お兄ちゃん、確か暗算得意だったよね?」


「得意だよ。これでも小学生時代は神童って言われてたからね」


 子どもの頃に神童と呼ばれていた人は、大体大人になるにつれて普通の人になっていくと聞いたことがあったけれど、兄には言わないことにした。


「ヒメナさんが生まれてから今日まで、何日経ってるかが知りたいんだ。閏年も忘れずに正確に」


「8580日」


「早っ! え? もう計算したの?」


 想像以上の速さだった。

 暗算にかけては、今でも神童のままのようだった。大人になった今は神人とでも呼ぶべきだろうか。


「ヒメナは1999年の12月6日生まれだから。今日は2023年の6月3日だろ? 8580日で間違いないよ」


「じゃあ、ヒメナさんが事故に遭ってから今日までは何日経ってる?」


 事故の日のことはあまり思い出させたくなかったけれど、必要なことだったから訊くことにした。


 兄のことだから、質問の意図はきっとすでに汲み取ってくれているだろうと思った。



 ユズナがもしものときに試そうとしていたのは、テストで使っていたのとは逆の方法だった。

 人には年齢というわかりやすい数字がある。

 ヒメナさんの年齢が今23歳か24歳かは、兄かユズナに確かめなければわからなかったが(どうやらまだ23歳らしい)、事故に遭った年の前年の16歳まで年を7つ(24歳なら8つ)だけマイナスすれば、事故以前の彼女を取り戻すことができるかもしれなかった。


 ただ、この方法だとヒメナさんはユズナやナノカよりもひとつ年下になってしまう。彼女は16歳のまま知らないうちに7~8年が経過していることになり、まるで浦島太郎のようになってしまう。


 事故に遭ったことだけでなく、兄と付き合っていたことを知らないどころか、兄の存在自体を知らないかもしれなかった。

 兄は7つか8つ年上になってしまうから、ヒメナさんは兄を好きになってはくれないかもしれなかった。

 普通の16歳の高校生は、23、4歳の大人の男の人と付き合うという選択肢はたぶんない。せいぜい高校の先輩か、大学生くらいまでだろう。

 それに、男の人が未成年の女の子にエッチなことをしてしまえば犯罪になってしまう。一応結婚できる年にはなっているから、結婚前提の交際なら許されるらしいけれど。


 あれ? 女の子が結婚できる年齢って、去年から18歳に引き上げになったんだっけ?


 生年月日と事故に遭った正確な年と日付さえわかれば、事故に遭う前日か前々日の17歳Xヵ月X日に戻すことが出来るはずだった。

 ユズナが知りたいのは、その「17歳Xヵ月X日」だった。


「2262日だよ」


 7年前だとばかり思っていたけれど、ヒメナさんが事故に遭ったのは、2017年の3月24日のことで、今日から6年と2ヶ月と10日前のことだったそうだ。


「じゃあ、今日のヒメナさんから2263日か2264日戻したら、事故に遭う前日か前々日のヒメナさんに戻せるってことでいい??」


「念のため、一週間余裕を持って、2269日戻して欲しいかな」


「わかった」


「生まれてから6311日、17歳と3ヵ月と11日のヒメナに戻して」


 やはり、兄はユズナの質問の意図をちゃんと理解してくれていた。


 兄の計算が終わるのとほとんど同じタイミングで、


「できたよ、ユズナちゃん」


 ナノカもユズナが頼んだことを、スマホのメモ帳に書き終えたようだった。


 手渡されたスマホの画面を見ると、ヒメナさんが事故に遭う前には出来ていたけれど今は出来なくなってしまっていることが、箇条書きで何十個も打ち込まれていた。

「話す」、「起き上がる」、「歩く」、「食事をひとりでする」といったことから、ヒメナさんのことをしっかり見ていなければわからないような些細なことまでびっしりと書かれていた。

 彼女はきっと、この数年間ずっと、時間の許す限りヒメナさんのお世話をしてきたのだろうなと思った。


 ふたりとも仕事がすごく早かった。

 こんなに早く、車が彼女の家に着く前にやってくれるなんてユズナは思いもしなかった。


「あれ? もうとっくに着いてると思ったんだけど、まだだったんだね」


 ナノカはそう言ったけれど、それは兄の運転が遅いという嫌味ではないことはすぐにわかった。

 彼女自身が自分の仕事の速さに一番驚いているようだったからだ。


 ギフトによってフリック入力の速度を早められていた彼女の指の動きは、ユズナの目では追えないくらい早かった。

 もしかしたら、彼女自身の体感では普段と同じ時間が経過している感覚だったのかもしれない。

 彼女のフリック入力の速度が早くなったわけではなく、時間の方が加速してしまっていて、加速した時の中で彼女はいつも通りに入力をしていただけだったとしたら、すぐに元に戻さないと危険だった。


 ナノカがスマホを触れば触るほど、ユズナよりも少しずつ年を重ねていくことになってしまうからだ。


 そんなに長文の文章をスマホで打つことなんて、ネット小説でも書いたりしていなければそうそうないとは思うけれど、塵も積もればということは十分ありえる話だった。

 ユズナなら、自分の身長や体重をギフトで維持しているように、彼女の年齢を維持することもできるだろう。

 けれど、ユズナはナノカ彼女とはなるべく同じ時の流れの中にいたかった。


 数分後、ナノカの家の近くに着いた。

 兄は車を路肩に停めた。

 田舎町の、駅前でも住宅街でもないような、まばらに民家や畑、田んぼがあるだけの場所だったから、駐車場なんてものは近くにはなかった。

 それは、同じ市内にあるユズナの家の辺りも同じだった。どちらかといえば、彼女や兄が住む家の方が田舎なくらいだった。


「お姉ちゃんを連れてくるから、ふたりともちょっと待っててね」


 ナノカは家の中に入って行った。

 ベッドに寝ているヒメナさんを車椅子に乗せて、連れてくるつもりなのだろう。

 わたしたちを家に入れてくれた方が早いのにとユズナは思った。

 家が散らかっているとか、ユズナや兄に見られたくないものがあるとか、そういう可能性もあるだろうから、ふたりとも特に何も言わなかった。


「2年前だっけ。この辺りの中学校で、男子生徒が同級生を刺殺する事件が起きたのって」


 兄は遠くに見える中学校らしき白い建物を見て、そんなことを言った。


「うん、確か2年前だね。わたしが中2のときだったから」


「その次の年には、同じ中学校の教師が盗撮で逮捕されたんだよな……」


 どうして兄は寂しそうな顔でそんなことを言うんだろうと思った。

 兄の母校は市内の別の中学校だったのに、と。


「ぼくもヒメナも高校が私立だっただけで中学までは公立の学校に通ってた。その2件の事件が起きたあの学校は、ヒメナの母校なんだよ」


 知らなかった。母校でそんな事件が起きるなんて、きっとすごく嫌だろうなと思った。

 だけど、それらはヒメナさんが卒業した後に起きたことだったから、兄や自分よりはまだ運がいいなと思った。


 10年程前、兄が通っていた中学校では、ひとりの男子中学生が市内や近隣の市町村の小学生ばかりを狙って、10人以上も殺害する連続殺人事件が起きていたからだ。

 その連続殺人犯は兄と同学年の男子生徒で、兄の友達の友達にあたる顔見知りだった。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?