車の免許がないユズナは知らなかったが、車検に通ると車検証とともに車検シールというものが交付されるのだという。
「ユズナの目の前、フロントガラスの左上の方に丸いシールが貼ってあるだろ?」
兄の言う通りの場所に、それらしきシールがあった。
車検シールは、その車が保安基準に適合していることを証明するものであり、車検の有効期限を表示するものだという。
「そういう風に、そのシールはフロントガラスに貼り付けて表示することが法律で定められてるんだ」
貼る場所は、今年の7月からさらに細かく指定されることになり、「運転者席側上部で、車両中心から可能な限り遠い位置(前方かつ運転者席から見やすい位置)」に変更になるという。
言葉だけではよくわからなかったけれど、フロントガラスの助手席側ではなく運転席側の右上になるということだろう。
兄はいつの間にかスマホでその2台の写真を撮っていたらしく、ユズナにその写真を見せてくれた。
確かに2台とも車検が何年も前に切れてしまっていた。
「無免許運転する人がいるくらいだから、車検が切れてても構わないって人がいるんじゃないの? 車検はしたけどシールを貼り忘れてるとか」
ナノカやヒメナさんの両親がそういう人だとは思いたくはなかった。
けれど、世の中にはそういう人たちが少なからずいる。
この国の人々の礼儀作法やおもてなしの精神は素晴らしいと他国の人々から褒められたりしているけれど、SNSを見ればそれが誤りだということくらい一目でわかる。接客業でアルバイトをすれば、この国の大半の人たちが常識のない人だと知ることにもなると聞いたこともあった。
ナノカやヒメナさんがどんなにいい子やいい人でも、その両親までいい人だとは限らない。
「車検シールを貼らずに公道を走行すると、最大で50万円以下の罰金を科せられる可能性があるんだよ。それにシールは大抵、車検を依頼したところが貼ってくれるんだ」
貼り忘れではなく、車検自体をしていないということなのだろう。
おまけにナノカの家があるあたりの広い道は、警察がよくスピード違反の取り締まりをしているらしかった。
いつ取り締まりを受けるかわからないような道路のそばに住んでいながら、車検をしてないのはおかしいという。
「あの家は、ナノカちゃんとサンボルがふたりでヒメナの面倒を診てただけで、何年も前から両親はいないんだよ」
と、兄は言った。
ナノカちゃんはきっと、バスかタクシーでうちの近くまで来て、そこで降りた後うちまで歩いて来たんだよ、と。
「介護疲れか何なのかわからないけれど、両親がふたりの娘を残して家を出ていったのだとしたら、車は一台減っているはずだ。だけど、二台とも車庫にあるだろ?」
「じゃあ、ナノカちゃんがわたしたちに見られたくなかったものって……」
嫌な予感がした。
ユズナの嫌な予感は大抵当たる。
それは、兄の嫌な推理もだった。
「あの家の中にはふたりの両親の死体があるんだよ。『未来日記』のヒロインの家みたいにね」
ユズナが予想した通りの答えが、兄からは返ってきた。
「でも、変なにおいとかしなかったよ? 死体ってすごくにおうんだよね?」
「布団を圧縮して小さくする袋があるだろ? 中の空気を全部抜くやつ。ああいうのを二重か三重に使って、完全に空気を密閉すれば、死体の腐敗は遅れるし、外ににおいももれないと思うよ。そういうの、前に映画で観た」
引っ越した家の隣に香川照之が住んでいたあの映画のことだろうか。
「あのサンボルちゃんっていうプラモデルは? 家の中にいるんでしょ? お兄ちゃんなら家の中が見えるんじゃないの?」
「サンボルは、自動操縦で動いてる。ヒメナのそばから離れないようにね。だから、いつもヒメナの部屋の中にいるだけ。遠隔操作に切り替えれば、部屋の外に出て、家の中を調べられるけど、ナノカちゃんに見つかれば壊されてしまうかもしれない」
そうなれば、今度はユズナやぼくの身に危険が迫る可能性がある、と兄は言った。
ぼくたちがいる以上、ヒメナには何もしないだろうけど、ぼくたちを消した後はヒメナのことも消すかもしれないとも。
兄は、どうしてもナノカが両親を殺したと言いたいようだった。
「でも、どうして?」
「ヒメナが事故に遭って植物状態になったとき、あの家の両親はお金がないからって尊厳死を選ぼうとした。植物状態は脳死と違って、目を覚ます可能性があるっていうのに。ヒメナに意識がないことをいいことにね。ぼくが治療費を用意すると言わなければ、ヒメナは両親に殺されてた。そんな両親がナノカちゃんは許せなかったのかもしれない」
多額の治療費を捻出できる収入がなかったのなら、いつ目覚めるかわからない、目を覚まさないかもしれない娘の尊厳死を選ぼうとしても仕方のないことだろう。
それが原因で両親を殺そうと思うだろうか。
ユズナは、兄が植物状態になり両親が尊厳死を選ぼうとしたら、と考えた。
もちろん、自分に兄を治療することができるギフトもなかったらと。
自分も同じことをするかもしれないと思った。
兄をそうするということは、それが兄ではなく自分だった場合もそうなるということだったから。
「バスやタクシーに乗ってこれたなら、ナノカちゃんは電車にも本当は乗れるんじゃないのかな。ユズナと一昨日知り合ったのは、本当に偶然だったのかな」
とも言った。
「でも、わたしが一昨日、夏服で家を出たり、学校に行かずに途中の駅で降りたことは偶然だよ? その駅のホームにベンチにナノカちゃんはいたんだよ。あの時のナノカちゃんは、まだわたしのギフトのことなんて知らなかったし、知ってるはずもないし……」
兄は、月曜からユズナに護衛をつけると言った。
ヒメナさんのサンボルのように、ということだろう。
サンボルは6年前にヒメナさんを事故から守れなかった子だ。
相手が車だったからしょうがなかったのかもしれない。
けれど、相手がナノカとはいえ、たかが18センチのプラモデルがユズナを守れるとは思えなかった。
「ヒメナのときに失敗してるから、ユズナには10体以上つけるよ」
「うん……ありがと……」
帰り道の車内のふたりは、まるでお通夜帰りのようだった。
ついさっき、皆で涙を流してヒメナさんとの再会を喜んだばかりだったというのに。
いつの間にか、空は赤く夕方になっていた。
ナノカがユズナの家に遊びに来たのは昼過ぎだったから、あれからまだ数時間しか経っていない。
それなのに、まるで何日も経っているような気がした。
ナノカは両親を殺したりしていない。
ユズナはそう信じたかった。
慣れない使い方でギフトをたくさん使ったからか、ユズナはひどく疲れていた。
家につくなり部屋に行き、着替えもせずそのまま眠ってしまった。
翌日の日曜の昼過ぎ、ユズナはリビングでテレビを観ていた。
テレビと言っても、民放やNHKではなく、サブスクのアニメだった。
兄もリビングにいて、彼女のためにプラモデルをせっせと組み立てていた。
ユズナはもう、兄の前でセーラースク水とニーハイでいることを恥ずかしいとは思わなくなっていた。
アニメを観ていても、頭の中に浮かぶのはナノカのことばかりで、話が全然頭に入ってこなかった。
「ナノカちゃんは、家に見られたくないものがあったんじゃないのかも……家にいるはずの人がいないことに気づかれたくなかったんじゃないかな……」
ユズナならともかく、ナノカは両親の死体を布団の圧縮袋に入れたり、そのまま家に放置するはずがない。なんとなく、そんな気がした。
「どういうこと?」
「ナノカちゃんもギフトを持ってるから。『クラインの壺』ってギフトだよ。ナノカちゃんのカバンの中には、まるで四次元ポケットみたいに、どんな大きさのものでも、どんな数でもいくらでも入るんだ。中にどんなにたくさんのものが入ってても、重さはカバン自体のままなの」
「まるで、ドラクエの『ふくろ』みたいなギフトだな」
「たぶんナノカちゃんは、お父さんやお母さんを殺さなくても、生きたままカバンの中に放り込んじゃえば良かったんだよ」
「生きたままか……井戸に放り込まれた貞子みたいに……もう生きてはいないだろうな……」
そう言った後、「いや、違うな」と兄は言った。