ナノカがパナギアウィルスに感染した頃、彼女には年上の彼氏がいたらしい。
温水女学園は女子校だから、当然別の学校の生徒ということになる。
鴉華謝之門(あかしゃのもん)学園という、N市栄や大須のあたりにある有名な中高一貫校の生徒だったそうだ。
それから数ヶ月後の3年前の初夏、ちょうど今頃の時期、中学2年になっていたナノカはその彼氏に生理が来なくなっていることを話した。
パナギアウィルスがどんな症状を引き起こすのかはもちろん、その名前も存在することすらわからなかった頃のことだった。
だから、彼女はその彼氏の子どもを妊娠したのだと思ったという。
元々生理不順だったから気づくのが遅れたらしい。
彼氏に話したところ、連絡が一切取れない状態になり、彼女は文字通り捨てられた。
SNSで知り合った相手だったらしいから、アカウントを削除され、携帯電話を番号ごと変えられてしまうと、彼女にはどうすることもできなかったらしい。
「どこの学校かくらいは知ってたから、学校のそばで待ち伏せして、このカバンの中に放り込んでやったからいいけど」
ナノカは両親以外の人もカバンの中に落としていた。
両親が先だったのか、その彼氏が先だったのかはわからない。
カバンの中に落としたことでタガが外れてしまったのだろう。デスノートやマヨナカテレビを悪用した人たちのように。
「赤ちゃんが埋めなくなるって簡単に言うけど、ただ卵巣が卵子を作れなくなるだけじゃないんだ。
パナギアウィルスにやられちゃうとね、レントゲン写真を見たお医者さんが、『お嬢さんは一体いくつからドラッグをやってたんですか?』って親に聞くくらい、卵巣がメチャクチャのグチャグチャになるんだよ。
わたしは生理不順な上に生理痛もひどかったから、生理が来なくなって毎月楽になったし、別に良かったけど。
それにね、妊娠しないからゴムはつけなくてもいいし中で出してもいいよって言ったら、男の子はとっかえひっかえできた。飽きたらカバンの中に入れて、新しい男の子に乗り換えるだけ」
だからキスや色々なことが上手だったんだなと思った。一体彼女は何人の男の子とそういうことをしてきたのだろう。その全員にユズナは殺意を覚えた。
「カバンの中に入れられた人たちは生きてるの?」
「生きてるよ。わたしのカバンの中には時間が流れてないみたいだから。みんな、この中で蝋人形みたいに固まってるんだ。でも、わたしは誰も外に出すつもりはないよ。外に出したらいけない人たちだから」
でも一番外にいたらいけないのはわたしかな、とナノカは言った。
「ずっとユズナちゃんが好きだったんだよ。ユズナちゃんの前はユイトさんが好きだったけど。この4年間好きだったのは、ユズナちゃんだけ。嘘じゃないよ。
でも、ユズナちゃんとは中等部の入学式の日に一度目が合っただけで話したこともなかったし、同じ女の子だったから、告白する勇気もなかったの。
お姉ちゃんがユイトさんに大事に思われてたみたいに、わたしも誰かに必要とされたかっただけなの。
体だけでいいから、誰かに必要とされたかった。愛されたかったの。そういうことをしてるときだけは、わたしみたいな子でも生きていてもいいんだって思えたから」
ナノカは笑いながら泣いていた。
彼女にとって性行為はきっとリストカットのようなものだったのだろう。
「わたし、馬鹿だったね。ユズナちゃんもわたしと仲良くしたいって思ってくれてること、知らなかったから。ユイトさんの妹だなんて知らなかったし、わたしのことを好きになってくれるなんて思いもしなかった。すぐに仲良くなれたはずなのに、すごく遠回りしちゃった。遠回りだけじゃなくて、色んな男の子に抱かれて、こんな穢れた体になっちゃった」
踊り場まで階段を上り終えると、ユズナは彼女を抱きしめた。
「わたしはナノカちゃんのことが大好きだから全部受け入れるよ。でも、ナノカちゃんは嫌なことは全部忘れていいよ。中1の入学式の日の、わたしと目が合った直後まで、ナノカちゃんの記憶や体を戻してあげる」
ユズナは、ナノカの年を4年と1ヶ月半ほど巻き戻すことにした。
巻き戻すという表現は正しくないかもしれない。
ユズナのギフト「±(ギブ・オア・テイク)」は、あくまでプラスのものをマイナスに、マイナスのものをプラスにするものだからだ。
いつの間にかプラスやマイナスをゼロにすることもできるようになっていたが、それはギフトの第二段階にあたるものだった。
ナノカに対してしたことはそのさらに発展系、第三段階のものであり、引き算のようなものだった。
だから、巻き戻したわけではなく、引き算したという表現が正しいだろう。
引き算が終わると、ユズナの目の前でナノカは意識を失い倒れてしまった。
ユズナは彼女を抱きかかえ保健室に運ぶことにした。
元々150センチほどしかなかったナノカの体は、4年分も巻き戻したというのにほとんどその大きさは変わっていないように見えた。体重も驚くほど軽かった。
ユズナは、ナノカだけじゃなく、彼女のカバンを誰かに捨てられたり取られたり隠されたりしないよう、ちゃんと肩にかけた。中に閉じ込められている人が何人もいるからだ。
保健室に向かう途中、ユズナはナノカの生理不順と生理痛が酷いことをマイナスからゼロやプラスにすることにした。
パナギアウィルスに感染・発症する前の体に戻した以上、その悩みは改善してあげたかった。
生理不順はゼロにすれば予定通りになるはずだ。生理痛はゼロじゃまだまだつらい。プラスにして症状を軽くしてあげたかった。
生理痛は、同じ女の子でも人によってその痛みや症状が異なる、個人差があるものだ。
軽い人はいつもとあまり変わらない生活を送れるが、重い人は貧血やめまい、腹痛や腰痛など、様々な症状が体に現れ、普段通りの生活が送れなくなってしまう。朝、体を起こせないくらいの人もいる。
病院にはかかりづらく、市販薬では効き目はたかがしれている。
体の不調は心にも現れる。言葉がきつくなり人を傷つけ、人間関係にも支障が出ることがある。
学校は休めばすむだけの話だけれど、テストや受験の日と重なれば休むことはできない。
社会に出れば軽い人が生理休暇を取らずに働けてしまうため、重い人はとても働けるような状態ではないのに生理休暇を取りづらくなってしまっているのがこの国の社会だった。
一昔前の鬱と同じで、生理を理由に怠けていると言われてしまうこともあると聞く。
女の敵は女という言葉があるけれど、生理痛の酷い女性にとって、一番の敵は生理痛の軽い女性だった。
ナノカの自己肯定感の低さをどうするか悩んだけれど、ギフトを使うことはやめることにした。
自分がそばにいればこれからいくらでもプラスに出来ると思ったからだった。
「また倒れたのね、その子」
保健室にいた養護教諭は、ナノカを抱きかかえて入ってきたユズナを見ると呆れたように言った。
長い黒髪を三つ編みにして、赤いフレームの眼鏡をかけ、白衣を着た女性だった。二十代の半ばか後半くらいの年のはずが、自分とほとんど変わらない年に見えた。
どうやらナノカは保健室の常連らしかった。
その養護教諭が見ても、全く違和感を感じないくらい、彼女の見た目に大きな変化は見られないようだった。
「また貧血かしら? ちゃんとご飯を食べてるのか心配になるわね。一度ご両親とお話しする機会を設けた方がいいのかしら……」
それを聞いたユズナは、彼女が貧血気味の体であることもまた、その場で治すことにした。
彼女の両親が彼女の言う通りの大人だったとしたら、養護教諭からの呼び出しに素直に応じるとは思えなかったからだ。
もちろん、目を覚ましたナノカがカバンからふたりを出したときには、そのネグレクト気味の性格をマイナスからプラスに変えるつもりだったけれど。
ユズナは、人の記憶や体だけでなく、その気になれば人格さえも変えられるだろう自分のギフトが少し怖かった。
ナノカのためなら、それをすぐに実行しようと決断してしまう自分自身も。
「あなたは確か、樽美ユズナ(たるみ ゆずな)さんだったわね?」
養護教諭に名前を呼ばれ、ユズナは驚いてしまった。
保健室にはほとんど顔を出したことはなかったから、まさか名前を覚えられているとは思わなかった。