「……で?」
僕の制服を持ってくれた蓮くんが口を開いた。その声は、先ほどの慌てぶりとはうって変わって、低く、ぶっきらぼうな響きに戻っている。
「これからどうすんだよ、お前は。あいつら相手に」
彼の視線が、真っ直ぐに僕を射抜く。試すような、あるいは、単なる好奇心か。僕はその問いに、一瞬だけ考える間を置いてから、静かに答えた。
「どうするって……決まってるじゃないですか。やられたままは性に合わないので」
僕は、校舎裏での冷たい水の感触を思い出しながら、きっぱりと言った。
「とりあえず、お返しをしようと思います」
「はあ!? お返しって……本気で言ってんのか、お前……。相手は姫野だぞ?」
蓮くんは、心底呆れたというように目を見開いた。彼の反応からしても、やはり姫野莉子という少女は、あのクラスで相当な影響力を持っているのだろう。普通のクラスメイトなら、逆らおうなどと考えもしない相手なのかもしれない。
「本気ですよ。やられっぱなしは、後々もっと面倒なことになるだけですから。最初が肝心です」
僕は、かつて社会人として培ってきた処世術のようなものを口にする。蓮くんは、ますます呆れたような顔をしたが、同時に、その目の奥に、面白がるような光が宿ったのを僕は見逃さなかった。
「……へぇ。で、具体的に何するつもりだよ」
「まあ、見ててください」
僕はそれだけ言うと、彼を伴って教室へと戻り始めた。その道すがら、僕は中庭に面した水飲み場に立ち寄った。
「蓮くん――ペットボトルか、もしくは水筒とか持ってたりしませんか?」
「……空のペットボトルでよきゃあるけどよ」
「問題ないです――ありがとうございます!」
僕は空の500mlのペットボトルを受け取ると、蛇口を捻って、なみなみと水を満たした。
「おい、まさか……お前……」
蓮くんが、僕の意図に気づき、唖然とした声を上げる。僕は、ペットボトルのキャップをしっかりと閉めながら、彼に向かってにっこりと微笑んで見せた。
「さ、行きましょうか。休み時間が終わってしまいます」
僕たちは、休み時間が終わる直前の、ざわついた教室へと戻った。僕が体操服姿で、しかも蓮くんと一緒に現れたことに、クラスの視線が一瞬集まる。
だが、それもすぐに、それぞれのグループのおしゃべりの中へと掻き消えていった。
その中で、ひときわ大きな声で騒いでいる一角があった。教室の前方、窓際の席。姫野莉子とその取り巻きたちだ。彼女たちは、僕の姿を認めると、待ってましたとばかりに、わざとらしい嘲笑を浴びせてきた。
「あーあ、見て見てー! びしょ濡れネズミのお帰りだー!」
「体操服、ぶっかぶかで超ウケるんですけどー!」
「記憶だけじゃなくて、服のセンスもどっか行っちゃったんじゃないのー?」
下品な笑い声が教室に響く。他の生徒たちは、聞こえないフリをするか、あるいは、面白がって遠巻きに見ているだけだ。誰も、助けてはくれない。なるほど、これが日常――というわけか。
僕は、その嘲笑を完全に無視した。何の反応も示さず、ただ、まっすぐに彼女たちの中心――姫野莉子の席へと向かって歩き出した。僕の手には、水の満たされたペットボトルが握られている。
僕のただならぬ雰囲気に、取り巻きたちが一瞬、口をつぐむ。姫野さんも、僕がまっすぐ自分に向かってくることに気づき、「な、なによ……あんた……」と、わずかに怯んだような表情を見せた。
僕は、莉子の目の前で立ち止まった。そして、無言のまま、右手に持ったペットボトルのキャップを左手で捻り、開けた。
次の瞬間。
バシャッ!!
ペットボトルを逆さにし、中の水を、狙い違わず、姫野莉子の頭上から浴びせかけた。汲んだばかりの冷たい水が、彼女の整えられた髪と、綺麗な制服のブラウスを、あっという間に濡らしていく。
教室が、水を打ったように静まり返った。
水をかけられた姫野さんは、一瞬、何が起こったのか理解できないというように、呆然と目を見開いていた。濡れた前髪から滴り落ちる水滴。みるみるうちに色が変わっていくブラウス。
やがて、状況を理解した彼女の顔が、みるみるうちに怒りで赤く染まっていく。
「あんた! 何すんのよぉぉぉっ!!!!!」
金切り声、という表現がこれほど似合う声を聞いたのは初めてかもしれない。耳をつんざくような絶叫が、静まり返った教室に響き渡った。
僕は、空になったペットボトルを左手に持ち替え、濡れそぼった莉子を、極めて冷静に見下ろしながら言った。
「何って……やられたから、やり返しただけです。何か問題でも?」
僕の声は、自分でも驚くほど、落ち着いていた。その落ち着き払った態度が、逆に姫野さんの怒りの火に油を注いだようだった。
僕の後ろの方で、誰かが小さく息を呑む気配がした。おそらく、蓮くんだろう。彼の目に、今の僕の行動はどう映っただろうか。
「ふざけないでよ!! あんたよくも――!! 」
怒りに我を忘れた莉子が、叫びながら椅子を蹴立て、僕に掴みかかろうと手を振り上げた。その動きは、中学生の女子としては、かなり速く、鋭い。
(おっと、危ない――)
僕が身構えるよりも早く、しかし、その手が僕に届く寸前で、横から伸びてきた別の手が、姫野さんの腕を強く掴んで制止した。
「おい、やめとけよ、姫野。見苦しいぜ――先に手を出したのはお前なんだろうが」
低い、有無を言わせぬ声。蓮くんだった。いつの間にか、彼は僕のすぐそばまで来ていた。
「なっ……! 相葉!? あんたには関係ないでしょ! 離しなさいよ!」
莉子は、蓮くんに腕を掴まれたまま、さらに激昂して喚き散らす。だが、蓮くんは眉一つ動かさず、冷めた目で彼女を見下ろしている。体格差もあり、姫野さんは蓮くんの腕を振りほどけないようだ。
まさに一触即発、というところで、次の授業の開始を告げるチャイムが鳴り響いた。同時に、廊下から担任の佐藤先生が教室に入ってくる気配がする。
蓮くんは、タイミングを見計らったように、掴んでいた莉子の腕を乱暴に放した。姫野さんはよろめきながらも、僕と蓮くんを交互に睨みつけ、悔しそうに唇を噛んでいる。
そして濡れた服を手で隠すようにしながら教室から早足で去っていった。
教室には、とんでもない緊張感が漂っていた。水をかけられた姫野莉子。それをやった僕。そして、その間に割って入った蓮くん。
この出来事が、このクラスの力関係を、そして僕のこれからの学校生活を、大きく揺り動かしていくであろうことは、疑いようもなかった。