姫野莉子が教室を飛び出し、教科担当の先生が入ってきて、騒然としていた教室は、表面的には落ち着きを取り戻した。
先生は、僕と蓮くん、そして明らかに異常な教室の空気を訝しげに見ていたが、結局、何も深くは追及せず、「席に着け、授業を始めるぞ」と低い声で告げただけだった。おそらく、面倒事を避けたいのだろう。その判断が正しいのかどうかは、僕にはわからない。
僕は、まだ少し濡れた感触の残る、ぶかぶかの体操服のまま、自分の席へと戻った。蓮くんも、何事もなかったかのように、しかしどこか射るような視線を教室全体に一度巡らせてから、自分の席へと戻っていった。僕たちの間には言葉はなかったけれど、先ほどの出来事を共有したことによる、奇妙な連帯感――あるいは、共犯意識のようなものが、たしかに存在している気がした。
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授業が再開された。確か、次は国語だったはずだ。教科書を開き、教師の声に耳を傾けようとする。だが、教室を満たしているのは、先ほどまでの凍てつくような静寂とはまた違う、ざわざわとした、落ち着かない空気だった。
生徒たちの視線が、ひっきりなしに僕と、そして時折、蓮くんの方へと向けられているのを感じる。それは、以前のような冷たさや無関心だけではない。驚き、戸惑い、好奇心――そして、もしかしたら、ほんの少しの期待のようなものも含まれているのかもしれない。僕が起こした行動は、良くも悪くも、この淀んだ教室の空気に一石を投じたらしかった。
(……目立つのは本意じゃないんだけどね……)
それでも、先ほどの出来事を反芻すると、胸の奥が少しだけ熱くなるような感覚があった。水をかけられたこと、そして姫野のあの見下したような態度への怒り。また、それにやり返したという、ささやかな達成感。大人げないとは思う。もっとスマートなやり方があったかもしれない。でも、あの瞬間、僕にはあれ以外の選択肢が思いつかなかったのだ。
(……これから、どうなるんだろうな……。報復とか、あるんだろうか……。まあ、なんとかなるか……。1人じゃない、みたいだし……)
ちらりと蓮くんの方を見る。彼は、相変わらず窓の外を眺めているだけで、こちらを見ている気配はない。何を考えているのか、やはり読み取れない。
だが、彼がさっき、僕を助けるように割って入ってくれたことは事実だ。その理由が何であれ、今の僕にとっては心強い存在に思えた。
隣の席に視線を移す。すらりとした女子生徒――朝のHRで、僕の記憶喪失を知って驚いていた子だ。彼女は、授業中も何度か、心配そうにこちらを窺っているようだった。目が合うと、気まずそうにサッと逸らされてしまうけれど、その視線には、敵意のようなものは感じられない。
長く感じられた授業が終わり、再び休み時間になった。教室の空気は、まだどこか落ち着かない。姫野莉子の姿は、あの後、教室には戻ってきていないようだ。彼女の取り巻きたちは、教室の隅でひそひそと何かを話しているが、こちらに何かしてくる様子はない。蓮くんの存在を警戒しているのだろうか。
他の生徒たちは、相変わらず遠巻きに僕のことを見たり、噂話をしたりしている。その内容は、もう単なる悪口や好奇心だけではない気がした。「すごかった」「まさかやり返すなんて」「姫野、めっちゃキレてたよね」――そんな断片的な言葉が、風に乗って聞こえてくる。僕に対する見方が、明らかに変わり始めている。
それでも、積極的に話しかけてくる生徒は、まだ誰もいなかった。僕は依然として孤立していた。だが、その孤立の質は、朝とは少し違っているのかもしれない。
以前は「関わってはいけない存在」だったのが、今は「得体の知れない、要注意人物」くらいにはなったのだろうか。どちらにしろ、居心地が良いとは言えないけれど。
そんな中だった。
不意に、隣の席の彼女――すらりとした女子生徒が、意を決したように、おずおずと僕の席に近づいてきた。
「あ、あの……沙羅ちゃん……」
その、親しみを込めた呼びかけに、僕は内心驚いた。
(沙羅ちゃん――名前で呼ぶということは親しかったのかな……? やっぱり、沙羅にも友達がいたのかな?)
そんなことを思いながら顔を上げると、彼女は少し顔を赤らめながらも、心配そうな、大きな瞳で真っ直ぐに僕を見つめてきた。
「さ、さっき……大丈夫だった……? その、服とか、髪とか……濡れちゃってるみたいだけど……」
彼女は、おそらく、かなりの勇気を振り絞って話しかけてきたのだろう。そのことが、彼女の震える声や、ぎこちない仕草から伝わってくる。僕に関わると、自分も面倒なことに巻き込まれるかもしれないのに。
僕は、彼女のそのささやかな勇気に、少しだけ心を動かされながら応えた。
「あ、うん……。心配してくれて、ありがとう……。えっと……ごめんなさい、お名前……聞いてもいいかな?」
僕の言葉に、彼女の表情が一瞬、曇った。寂しそうな、少し傷ついたような……そんな色が見て取れた気がした。
「……あ、記憶……そうだったね――私は椎名美希。よろしくね、沙羅ちゃん」
すぐに気を取り直したように、彼女は少しはにかみながら名乗った。
僕は「椎名さん……」とその名前を心の中で反芻した。彼女の、最初の親しげな呼びかけと、僕が名前を尋ねた時の、あの寂しそうな表情。
その理由は僕にはまだわからないが、おそらく僕と彼女の間には何かしらの関係性があったのではないだろうか。
「あの、もしよかったら、これ……」
椎名さんは、そう言って、小さな綺麗なハンカチを差し出した。
「まだ少し濡れてるみたいだから……」
「あ……ありがとう、椎名さん」
僕は、少し戸惑いながらも、そのハンカチを受け取った。柔らかい布地から、微かに石鹸のような清潔な香りがした。
それが、僕と椎名美希さんとの、最初の意味のある接触だった。
彼女は、「じゃあ、また……」と小さく言って、自分の席に戻っていった。僕は、その背中を見送りながら、様々なことを考えていた。
クラスの空気は、確かに変わり始めている。姫野莉子との対立は避けられないだろう。
動き出した歯車――それが、これからどんな音を立てて回っていくのか。僕は、手の中の小さなハンカチを握りしめながら、次の授業の開始を告げるチャイムの音を、静かに聞いていた。