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第17話 黄昏の護衛

 長かった復学初日の最後の授業が、ようやく終わりのチャイムと共に幕を閉じた。

 途端に、教室全体が解放感に包まれ、生徒たちは堰を切ったように帰り支度を始める。今日の出来事を興奮気味に語り合う声、週末の予定を立てる声――その喧騒の中で、僕は1人、自分の席でゆっくりと荷物をまとめていた。


 結局、僕は1日中、蓮くんから借りたこのぶかぶかの体操服のまま過ごすことになった。濡れた制服は、ビニール袋に入れてカバンの奥底に押し込んである。

 体操服姿は当然目立ち、授業中も休み時間も、好奇や揶揄、あるいは同情といった様々な種類の視線を感じ続けた。正直、精神的にかなり疲弊した。今はただ、一刻も早く家へ帰り、1人になりたかった。


(……疲れた……。本当に、疲れた……)


 重い身体を引きずるように席を立ち、教室を出ようとした、その時だった。


「おい」


 不意に、背後から低い声がかかった。振り返ると、そこには蓮くんが、自分のスクールバッグを肩にかけ、壁に寄りかかるようにして立っていた。


「? 何か用ですか、蓮くん」


 彼が僕に何の用があるというのだろうか。まさか、体操着を今すぐ返せ、とか……?


 彼は、僕の視線を受け止めると、少しばつが悪そうに視線を逸らし、ポケットに手を突っ込んだまま、ぶっきらぼうに言った。


「……別に。……その、なんだ……送ってってやるよ」


(……え?)


 予想外すぎる申し出に、僕は一瞬、言葉を失った。


「え? 送ってくれるって……なんで……ですか?」


 思わず、素直な疑問が口をついて出る。


 蓮は、チッと小さく舌打ちをすると、さらに視線を逸らしながら早口で言った。


「……るせーな。あいつら姫野たちが、帰り道で何か仕掛けてこねえとも限らねえだろ。別に、お前のこと心配してるわけじゃねえけど。後でまた面倒なことになんのは、こっちもごめんだからな」


(……なるほど。あくまで自分のため、って言い訳か……。素直じゃないな、彼は)


 その不器用な優しさに、僕の心の中で、ほんの少しだけ温かいものが灯ったような気がした。今日の出来事で張り詰めていた心が、わずかに緩む。


「……じゃあ、お言葉に甘えてもいいですか?」


 僕がそう言うと、蓮くんは「……勝手にしろ」とだけ短く返し、さっさと昇降口の方へ歩き始めた。慌ててその後を追う。


 彼の隣に並んで歩くと、改めてその身長差を感じる。僕の頭は、彼の肩にも届かないくらいだ。自然と、彼を見上げるような形になる。


 昇降口で靴を履き替えている間も、周囲の生徒たちの視線を感じた。今日の騒動の中心人物である僕と、クラスでも浮いた存在であるらしい蓮くんが一緒にいるのだ。好奇の目で見られるのは、ある意味当然かもしれない。ヒソヒソと何か噂されているのが聞こえるが、今は気にしないことにした。


 校門を出て、帰り道を歩き始める。並んで歩くと、やはり彼の歩幅は僕より大きく、少し早足でついていかなければならない。この身体は、本当にすぐに疲れる。


 しばらく、2人の間には気まずい沈黙が流れた。何を話せばいいのか分からない。蓮くんの方も、話す気はないようだ。ただ、時折、彼が周囲を警戒するように視線を動かしているのには気づいた。やはり、姫野たちのことを気にしているのだろうか。


 沈黙を破ったのは、僕の方からだった。何か話さなければ、という妙な義務感のようなものがあったのかもしれない。


「……今日は、本当にありがとうございました。助かりました」

「……別に」


 相変わらず、素っ気ない返事だ。


「蓮くんは、なんであんなことしてくれたんですか?」

「……さあな。姫野がムカついただけだ」


 彼は、やはりそう答える。本心かどうかは分からない。

 そこで、また会話が途切れてしまう。


 するとそういえばと言わんばかりな表情を浮かべ蓮くんが口を開いた。


「……そういえばよ、お前のその敬語――キメェからやめろ。同級生なんだからよ――」

「あ……」


(そっか、たしかに……社会人の癖で敬語で話してたけど――中学生だもんな。それにしてもキメェって……まあ、たしかに不自然だよね……。よし、タメ口……タメ口……)


 「あ、うん……わかった。ありがとう、蓮くん」


 少しだけ、ほんの少しだけ、彼との距離が縮まったような気がして、僕は今日感じていた身体の疲労について、つい口を滑らせてしまった。


「……それにしても、疲れた……。今どきの中学生って、こんなに体力使うんだね……」


 言ってから、しまった、と思った。完全にアラサー目線の感想だ。案の定、蓮くんが怪訝な顔でこちらを見た。


「は? お前も中学生だろうが。何言ってんだ?」


(うわぁ――! やってしまった! 今のは不自然すぎる……)


 僕は内心で激しく慌てた。記憶喪失という設定はあれど、さすがに今の発言はおかしい。


「あ、いや! そのっ、なんていうか、ほら、ずっと寝てたし! 久しぶりに学校来たから、思った以上に疲れるなーって! 身体もまだ全然、本調子じゃないっていうか! アハハ……」


 自分でも分かるくらい、不自然な早口と、引きつった笑い。

 蓮くんは、ますます訝しむような目で僕を見ていたが、やがて「……? 変な奴……」と小さく呟くと、それ以上は追及してこなかった。記憶喪失だから、で片付けてくれたのだろうか。だとしたら、ありがたい。


(……危なかった……。気をつけないと……)


 冷や汗をかきながら、僕は内心で反省した。慣れない身体だけでなく、言葉遣いや思考の癖にも、注意が必要らしい。


 そんな、ぎこちないやり取りをしながら、家まであと少し、というところまで来た時だった。


「待ってー! 沙羅ちゃーん!!」


 後ろから、切羽詰まったような、必死な声が聞こえた。驚いて振り返ると、そこには、息を切らして、こちらに向かって走ってくる女子生徒の姿があった。肩で息をしながら、彼女――椎名美希は、僕の姿を確認すると、少しだけ安堵の表情を見せた。


 だが、すぐに僕の隣に立つ蓮くんの姿を認めると、その表情は一変した。明らかに警戒心を露わにし、僕と蓮くんの間に割って入るようにして、僕の腕を掴んだ。


「沙羅ちゃん、大丈夫なの!? この人と一緒なんて……! 何かされたんじゃ……!?」


 美希の大きな瞳が、心配と、蓮くんへの明確な敵意を浮かべて、僕たち二人を交互に見ている。


 突然の美希の登場と、その明らかな誤解。僕は、隣に立つ蓮くんと、思わず顔を見合わせてしまった。またしても、面倒なことになりそうな予感が、ひしひしとしていた。

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