復学2日目の朝。昨日とは違う種類の重さが、僕の身体にのしかかっていた。単なる緊張や不安だけではない。昨日、校舎裏で突きつけられた明確な悪意と、それに対して「戦う」と決めたことによる、ある種の覚悟のようなものだ。とはいえ、気分が晴れやかになるはずもなく、足取りはやはり重い。
(……さて、今日は何が起こるかな……)
教室のドアを開けると、昨日ほどの劇的な静寂や視線の集中はなかった。それでも、僕が足を踏み入れた瞬間、教室の空気がわずかに張り詰めるのを感じる。生徒たちの会話が、一瞬だけ途切れる。
そして、いくつかの視線が、探るように僕に向けられた。昨日、僕が起こした行動は、この閉塞した空間に、確かな波紋を広げたらしい。
教室の前方では、姫野莉子とその取り巻きたちが、すでに席に着いていた。姫野さんは、僕を一瞥すると、フンと鼻を鳴らしてわざとらしく顔を背けた。その瞳の奥には、昨日の屈辱に対するであろう、冷たい怒りの色が宿っているように見えた。取り巻きたちも、同様に僕を睨みつけてくる。
(……早速、臨戦態勢ってわけか。分かりやすい……)
僕は、彼女たちの敵意を意に介さないフリをして、自分の席へと向かった。途中、蓮くんと目が合う。彼は、小さく顎をしゃくるような仕草を見せた。昨日の「共犯関係」の、暗黙の合図のようなものだろうか。僕も小さく頷き返す。
そして、隣の席のミキちゃんとも視線が合った。彼女は、心配そうに眉を寄せながらも、僕に向かって、かすかに、しかし確かに微笑んでくれた。その小さなエールに、僕の心も少しだけ温かくなる。
自分の席に着き、鞄を机の横にかける。朝のHRが始まるまで、少し時間がある。教科書でも出しておこうかと、何気なく机の引き出しに手をかけた。
そして、引き出しを開けた瞬間――僕は、思わず息を呑んだ。
そこには、信じられない光景が広がっていた。引き出しの中が、大量のゴミで埋め尽くされていたのだ。くしゃくしゃに丸められた紙くず、お菓子の空き袋、使い終わったティッシュ、そして――微かに鼻をつく、腐ったような嫌な臭い。
(……はぁ……)
こみ上げてきたのは、怒りよりも先に、深い、深いため息だった。
(……思ったより手が早いな……。そして、相変わらず、やり方が幼稚で、不快極まりない……)
これが、彼女たちの「報復」の第一弾、というわけか。直接手を下さず、しかし確実に相手に精神的なダメージを与えようとする、陰湿ないじめの典型。
涼が生きてきた社会にも、形は違えど、こういう種類の悪意は存在した。
周囲の生徒たちが、僕の異変に気づき始めている。遠巻きに見て、ヒソヒソと囁き合っているのが分かる。莉子グループは、明らかに僕の反応を期待して、嘲笑を浮かべてこちらを見ていた。僕がここで泣き出したり、騒ぎ立てたりするのを待っているのだろう。
だが、生憎と、僕はそんな挑発に乗るほど若くはない。
(……ここで騒いでも、奴らの思う壺だ。冷静に、対処しないと……)
僕は、深呼吸を一つして、鞄から自分のスマホを取り出した。そして、引き出しの中の惨状を、様々な角度から、冷静に、写真と動画で記録し始めた。日付と時間が自動的に記録されるように設定を確認しながら。これが、僕にとっての最初の具体的な証拠となる。
その様子に、莉子グループは少しだけ拍子抜けしたような顔をしている。もっと感情的な反応を期待していたのだろう。他の生徒たちも、僕の意外な行動に、戸惑いと興味が入り混じったような視線を向けていた。
少し離れた席から、ミキちゃんが心配そうな顔で僕を見つめているのが分かった。目が合うと、彼女は不安そうに眉を寄せたが、僕が静かに頷き返すと、彼女も小さく頷き返してくれた。
声はかけられない。莉子たちの目があるからだろう。だが、その視線は、確かに僕を気遣ってくれていた。今は、それで十分だ。
写真を撮り終えると、僕は、仕方なく引き出しゴミを取り出し始めた。持っていたビニール袋を広げ、1つ1つ、手で拾って入れていく。不快な臭いと感触に顔をしかめそうになるのを、ぐっと堪える。
1人で黙々と作業を進めていると、不意に、隣にすっと影が差した。見上げると、そこには、腕を組んで僕を見下ろしている蓮くんがいた。
「……貸せよ」
彼は、それだけ言うと、僕が持っていたゴミ袋をひったくるように取り上げ、そして、何も言わずに、引き出しに残っていたゴミを無造作にかき集め始めた。その行動は、あまりにも自然だった。
僕だけでなく、教室中の生徒たちが、その光景に驚き、息を呑んだのが分かった。特に、莉子グループは、信じられないものを見るように目を見開き、明らかに苛立ったような表情を見せている。
素行が悪く、クラスで浮いた存在であるはずの相葉蓮が、なぜ、いじめのターゲットである遠野沙羅に手を貸しているのか? 理解できないのだろう。
他の生徒たちも、ざわつき始めている。「え、相葉が?」「なんで手伝ってんの?」「遠野と知り合いだったのか?」
昨日、僕が投げた石は、蓮くんのこの行動によって、さらに大きな波紋となって広がっていくのかもしれない。
蓮くんは、そんな周囲の空気を全く意に介さず、黙々とゴミを袋に詰めていく。僕も、彼に倣って作業を再開した。2人でやれば、作業は思ったよりも早く進んだ。
引き出しが空になり、ゴミでパンパンになった袋の口を縛る。
「……ありがとう、蓮くん」
僕は、小声で礼を言った。
「……別に」
彼は、相変わらずぶっきらぼうに答え、ゴミ袋を持って立ち上がると、教室の後ろにある大きなゴミ箱へと向かい、それを無造作に放り込んだ。そして、何事もなかったかのように、自分の席へと戻っていく。
その間、莉子グループは、ただ悔しそうに僕たちを睨みつけているだけだった。
(……助かった……。それにしても、蓮くん……)
彼の行動の真意は分からない。単なる気まぐれか、姫野さんへの反発か。
だが、結果的に、僕は最初の報復を彼の助けもあって、冷静に切り抜けることができた。そして、確かな「証拠」も手に入れた。
朝のHRが始まるチャイムが鳴る。僕は、まだ少しだけざわめきが残る教室の中で、気持ちを切り替えるように、最初の授業の準備を始めた。
(……幼稚な嫌がらせだけど、執念深いタイプかもしれないな……。今日の証拠だけじゃ、まだ弱い……。もっと、決定的なものを集めないと……)
蓮くんという協力者。遠くからでも心配してくれるミキちゃん。そして、僕自身の中にある知識と経験、そして、この理不尽な状況に立ち向かうという決意。
戦いは、まだ始まったばかりだ。僕は、これから始まるであろう、より陰湿な攻撃に備え、次の一手をどう打つべきか、冷静に思考を巡らせ始めた。