僕の身体は奇妙な不調を訴え続けていた。風邪とは違う、もっと身体の奥底から響いてくるような、鈍い痛みと倦怠感。下腹部が鉛のように重く、時折、きりりと締め付けられるような痛みが走る。腰も砕けそうにだるく、全身が熱っぽいような、それでいて芯は冷えているような、形容しがたい不快感がまとわりついて離れない。
授業に集中することなど、到底無理だった。黒板の文字は霞んで見え、教師の声は遠くに聞こえる。ただ、じっと椅子に座っていることさえ苦痛で、額には冷や汗が滲む。休み時間も、以前のように教室を観察する余裕などなく、ただ机に突っ伏して、この原因不明の不調が過ぎ去るのを耐えるしかなかった。
(……本当に何なんだろう、これ……。ただの疲れじゃない気がする……。何か、悪い病気なんじゃ……)
そんな不安が、弱った心に暗い影を落とす。元の身体なら、多少の不調は気合で乗り切れた。だが、この身体は、僕の意志とは無関係に、容赦なく悲鳴を上げるのだ。
そして、その不調がピークに達したのは、5時間目の授業中のことだった。古典の授業だったか――退屈な古文の解説を聞き流していると、不意に、下腹部から何か生温かいものが、じわりと流れ出すような、はっきりとした感覚があった。
(……え?)
瞬間、全身の血の気が引くのを感じた。
(怪我? いや、どこも痛くない。じゃあ、これは……? まさか……)
嫌な予感が、確信へと変わっていく。顔面蒼白になるのが自分でも分かった。授業の内容など、もう全く頭に入ってこない。
(早く、確かめなければ。でも、どうやって? 授業中に席を立つわけには……)
残りの授業時間が、拷問のように長く感じられた。
チャイムが鳴った瞬間、僕はほとんど転がるように席を立ち、女子トイレへと駆け込んだ。幸い、他の生徒はまだ教室で騒いでいる。一番奥の個室に飛び込み、震える手で鍵をかける。
恐る恐る、スカートを捲り上げ、下着を確認する。
そこには、僕の最悪の予感を裏付けるように、鮮やかな赤色の染みが、くっきりと広がっていた。
(……あ……ああ……やっぱり……)
頭が、真っ白になった。知識としては知っていた。女性には、月に一度、こういうことがあるのだと。だが、それはあくまで他人事、遠い世界の出来事だった。それが今、紛れもない現実として、この僕の身体に起こっている。
(生理……。これが……)
愕然として、便座に座り込む。壁に寄りかかり、荒い息を繰り返す。信じられない。信じたくない。だが、下腹部の鈍い痛みと、流れ出してくる感覚は、嫌というほどリアルだった。
とりあえず、この出血をどうにかしなければならない。備え付けのトイレットペーパーを、これでもかというくらい厚く畳んで下着に当てる。ゴワゴワとした感触。こんなもので、本当に大丈夫なのだろうか。すぐに汚れてしまうのではないか。不安と不快感で、吐き気がした。
(どうすればいいんだ、これ……?)
途方に暮れて、個室の中で膝を抱える。その時ふと、ミキちゃんの顔が思い浮かんだ。彼女なら、何か知っているかもしれない。助けてくれるかもしれない。でも、こんなこと、どうやって相談すれば――。
意を決して個室を出ると、ちょうど手を洗いに来たのだろうか、ミキちゃんが洗面台の前に立っていた。僕の姿を見るなり、彼女は心配そうに駆け寄ってきた。
「沙羅ちゃん……! 大丈夫!? 顔、真っ青だよ……。もしかして……『アレ』、来た……?」
(アレ……?)
僕がきょとんとしていると、ミキちゃんは少し声を潜めて続けた。
「だって……沙羅ちゃん、昔から生理、重い方だったじゃない? 今日の朝から、ずっと顔色悪かったし、もしかして、って……」
(……そうか。この身体は、元々……)
ミキちゃんが、沙羅の体調のことまで覚えていてくれたことに、少しだけ驚く。そして、彼女が僕の状況を正確に察してくれたことに、僕はわずかな安堵感を覚えた。僕は、小さく、しかしはっきりと頷いた。
「やっぱり……! 大変! とりあえず保健室行こ! 薬もらわないと!」
ミキちゃんは、僕の腕を掴むと、テキパキと保健室へと連れて行こうとした。だが、僕は出血のことが気になり、その場を動けずにいた。
「あの……その前に、これ……どうしたら……」
僕が言い淀んでいると、ミキちゃんはすぐに察してくれた。
「あ、そっか……! 大丈夫、私、持ってるから!」
彼女は、自分のカバンから小さなポーチを取り出し、中から個包装されたナプキンを数枚取り出した。
「これ使って。使い方……分かる? 記憶ないんだもんね……えっとね……」
ミキちゃんは、少し照れたように頬を赤らめながらも、トイレの個室に一緒に入り、ナプキンのパッケージの開け方から、下着への装着方法まで、丁寧に教えてくれた。
僕は、彼女の優しさに甘え、ぎこちない手つきで、人生で初めてナプキンを装着した。
(……うわ……なんだこれ……ゴワゴワする……。それに、蒸れる……。最悪だ……)
装着できたところで、不快感が消えるわけではない。むしろ、常に異物がそこにあるという感覚が、意識から離れない。
「大丈夫? とりあえず、これで少しは安心かな……。保健室で、痛み止めの薬貰おうか?」
ミキちゃんが心配そうに声をかけてくれる。
「……うん。ありがとう、ミキちゃん。本当に、助かった……」
僕は、力なく礼を言うと、ミキちゃんに連れられて保健室へと向かった。
☀︎☀︎☀︎
保健室のベッドで横になっていると、先ほど飲んだ鎮痛剤が少し効いてきたのか、下腹部の痛みは幾分和らいだ気がした。隣には、ミキちゃんが付き添ってくれている。
「……結構、痛いんだね……生理って……」
僕は、ぽつりと呟いた。
「そっか……沙羅ちゃんは重いもんね……。私は、あんまり酷い方じゃないから、そこまで辛さは分からないんだけど……。薬、効くといいね」
ミキちゃんは、優しくそう言ってくれる。その言葉に、僕は感謝しつつも、同時に、言いようのない孤独を感じていた。
(……そうか……。人によって、重さも違うのか……。じゃあ、この痛みも、この不快感も、本当の意味では、誰にも分かってもらえないんだな……)
ミキちゃんが隣にいてくれても、蓮くんが協力してくれても、両親が愛情を注いでくれても――この身体の苦しみだけは、僕一人で耐えるしかないのだ。
その事実は、僕が生物学的に完全に「女性」になってしまったという、動かしがたい現実を、これ以上ないほど強く、そして残酷に突きつけてきた。頭での理解ではない。身体が、その痛みと不快感をもって、僕に訴えかけている。お前はもう、男ではないのだ、と。
(……僕は、この身体で、この現象と、これからずっと付き合っていかなければならないんだ……)
深い、深い溜息が出た。それは、絶望なのか、諦めなのか、自分でもよく分からない感情の表れだった。
そして、身体の不調と共に、心までが不安定になっていくのを感じていた。些細な物音にイライラしたり、ミキちゃんの優しさに、理由もなく涙が出そうになったり、かと思えば、急に全てがどうでもよくなるような、深い気分の落ち込みに襲われたり――感情の起伏が激しく、自分自身をコントロールできない。
(なんだか、妙にイライラする……。かと思えば、急に悲しくなったり……。僕、どうかしちゃったのかな……? これも、生理のせいなのか……? 最悪だ……本当に、最悪だ……)
心と身体の両面から襲い来る未知の困難。僕は、保健室のベッドの上で、ただ為すすべもなく、その嵐が過ぎ去るのを待つことしかできなかった。