その朝、僕の身体は完全に僕の制御下を離れていた。生理が始まって2日目。昨日の衝撃と混乱に続き、今日僕を襲ったのは、容赦のない身体的な苦痛と、まるで自分の心ではないかのように揺れ動く感情の波だった。
(……痛い……。重い……。だるい……)
下腹部には、鈍く、しかし確実に存在を主張し続ける重たい痛みが居座っている。時折、内側からぎゅうっと締め付けられるような鋭い痛みが走り、思わず呼吸が止まる。腰も、まるで鉛の塊を埋め込まれたかのように重だるく、立っていることさえ億劫だ。昨夜飲んだ鎮痛剤は、気休め程度の効果しか示してくれていない。
それでも、学校を休むという選択肢は、今の僕にはなかった。記憶喪失で復学したばかりの生徒が、すぐにまた休むわけにはいかない。それに、ここで休めば、姫野さんたちに「逃げた」と思われるかもしれない。それは、僕の小さなプライドが許さなかった。
なんとか身支度を整え、朝食もほとんど喉を通らないまま家を出る。顔色は最悪だろう。母親が心配そうに声をかけてきたが、「大丈夫」と力なく返すのが精一杯だった。
学校への道のりは、普段の何倍も長く感じられた。一歩進むごとに、下腹部に鈍痛が響く。教室にたどり着いた時には、すでにぐったりと疲弊していた。
授業が始まっても、その苦痛は続く。硬い木の椅子に座っていること自体が苦行だ。時折襲ってくる痛みの波に耐えながら、教師の声は右から左へと抜けていく。黒板の文字は、白い靄がかかったようにぼやけて見える。
(……集中できない……。何も、頭に入ってこない……)
それだけではなかった。身体の不調は、僕の精神にも奇妙な影響を及ぼし始めていた。普段なら気にも留めないような、些細なことが、やけに神経に障るのだ。
教室のざわめき。誰かが立てるペンの音。椅子のきしむ音。窓の外から聞こえる、遠くの工事の音。それら全てが、まるでボリュームを最大にしたかのように大きく耳に響き、僕の集中力を削ぎ、苛立ちを募らせる。
蛍光灯の白い光は、やけに目に突き刺さるように眩しく、頭痛まで誘発しそうだ。近くの席の生徒が使っているのだろうか、甘ったるい整髪料の匂いが鼻をつき、軽い吐き気を催す。
(……うるさい……。眩しい……。気持ち悪い……)
五感が、まるで暴走しているかのようだ。些細な刺激が、全て不快感へと変換されていく。教師が僕を指名しないことに安堵しつつも、その単調な声すら、今は耳障りに感じてしまう。隣の席で、ミキちゃんが心配そうにこちらを窺っている気配を感じるが、今は彼女に笑顔を向ける余裕すらなかった。
そして、そのイライラは、時折、全く別の感情へと急降下する。
(……なんで、僕がこんな目に……)
ふと、窓の外の、高く、どこまでも広がる青空を見ていると、理由もなく、胸の奥から深い悲しみのようなものがこみ上げてくるのだ。なんの前触れもなく失ってしまった元の自分の身体。もう二度と戻れないかもしれない日常。
そして、この見知らぬ身体で、たった一人、先の見えない未来を生きていかなければならないという、途方もない孤独感。それらが、一気に僕を襲い、視界が滲む。
(……泣きそうだ……。なんで……? 意味が分からない……)
慌てて涙を堪える。感情が、まるでシーソーのように、極端な怒りと悲しみの間を行き来している。自分でも、自分の心がどうなってしまったのか分からない。まるで、自分の中に、自分ではない誰かがいるかのように、感情が勝手に暴走する。
(……これも、生理のせい、なのか……? ホルモンバランス? よく聞くけど……こんなにも、自分をコントロールできなくなるものなのか……? 最悪だ……本当に、ままならない……)
自己嫌悪と無力感に苛まれながら、僕はただ、時間が過ぎるのを耐えるしかなかった。
午後の体育の授業は、もちろん見学した。担任に「お腹が痛くて……」と伝えると、あっさりと許可が出た。ミキちゃんが心配してそばにいようとしてくれたが、僕は「大丈夫だから」とだけ言って、体育館の隅で膝を抱えていた。元気に走り回るクラスメイトたちの姿が、まるで別世界の出来事のように見える。その輪の中に、僕の居場所はない。
また、休み時間になるたびに、僕はトイレに駆け込んだ。ナプキンを交換する行為にも、まだ慣れない。その度に、自分が「女」であるという現実を、嫌でも突きつけられる。
個室の中で、腹部の痛みに顔をしかめながら、深く息をつく。早く、この不快な期間が終わってほしいと、心から願った。
そんな僕の様子を――僕が明らかに弱っているその姿を、教室の前方から、冷たい視線がじっと観察していたことに、その時の僕は気づいていなかった。