20. 気にしないよ
ボクはただただ怖いんだ。もしボクが秘密にしている女装というもう一つの自分を、憧れの葵ちゃんに知られてしまったら……その想像だけで心臓がぎゅうっと締め付けられるように痛む。
だってそうでしょ?普通に考えたら、気持ち悪いって思われるに決まっている。そんなのボクには耐えられない。
でも……それでもやっぱりボクは葵ちゃんに会いたいって強く思うんだ。もっと色々なことを話して、もっと仲良くなりたい。昼間の明るい教室で、時折目が合うだけでもドキドキしてしまうのにもっと親密になりたいなんて、きっと無理な願いなんだろうな。
「勇気がないんだ……ボクは……」
そしてボクはまた、スマホの画面に映る葵ちゃんのあの太陽のような笑顔にそっと触れた。
数日後の放課後。日直の仕事を終え、最後に黒板を拭きながら、ふと校舎裏側の窓の外に目をやった。茜色に染まり始めた空の下、見慣れた葵ちゃんの姿とその隣に見慣れない一人の男子生徒が立っていた。
「あれ……葵ちゃん?」
その男子生徒は、確か隣のクラスのサッカー部に所属しているとかで、学校でも有名なイケメンだと聞いたことがある。そんな二人が放課後の人気のない校舎裏で、一体、何をしているんだろう?
夕焼けが二人のシルエットを長く伸ばしている。ボクは思わず窓に吸い寄せられるように身を乗り出し、外の様子を窺った。するとちょうど葵ちゃんが、その男子生徒に少し緊張した面持ちで何かを告げられているところだった。
「え……」
突然の光景にボクは息を呑んだ。まさか、こんな瞬間に立ち会ってしまうなんて……まるでドラマを見ているみたいだ。でもそれと同時に、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような苦しい感覚に襲われた。それは嫉妬という感情なのだろうか?
ボクは息を潜め、心臓の鼓動が早くなるのを感じながら、二人の様子をそのまま見守った。葵ちゃんは、少し困ったような申し訳なさそうな表情を浮かべた後、その告白をはっきりと断った。
その瞬間、張り詰めていた何かがふっと緩んだようにボクは思わずホッと胸を撫で下ろした。ああ良かった……でも同時になんだかすごく複雑な気持ちになった。この安堵感とほんの少しだけ感じるまるで小さな針で刺されたような寂しさ。これは一体何なのだろう?そんなことを一人ぼんやりと考えていると……
「白瀬君?」
「え……」
まさか。身を乗り出すようにして外を見ていたせいで、完全に葵ちゃんに見つかってしまったようだ。どっ、どうしよう……ボクは、慌てて身を隠そうとしたけれどもう遅い。夕焼けを背にした葵ちゃんは、そのままにこやかに微笑みながら、ボクに向かって小さく手招きをしている。
もしかして……怒らせてしまったのかな……確かに人の告白を覗き見するなんて悪趣味だし、嫌われても仕方ないよね……足が鉛のように重いけれど、ボクは覚悟を決めて葵ちゃんの元へ恐る恐る向かった。
「あっ……あの……」
「……今の、見てた?」
葵ちゃんの少しだけからかうような優しい口調に、ボクの心臓はさらにドキッとした。夕焼け色の光が彼女の瞳をキラキラと輝かせている。
「ご……ごめんなさい……」
「そっか。別に怒ってないよ。それよりさ……白瀬君ってもう帰るところ?」
「うん……」
「もし良かったら……駅まで、一緒に帰らない?」
葵ちゃんからのまさかの誘いに僕は、一瞬だけ言葉を失って頭の中が真っ白になった。まさか葵ちゃんからそんなことを言われるなんて、夢にも思っていなかったからだ。信じられない気持ちと、小さな喜びが胸の中で渦巻いている。
なんで……?
今のボクは、可愛らしい格好をしている『白井雪姫』じゃなくて、ただの地味な男子高校生『白瀬優輝』なのに……?
「ちょっと……さっき告白されたあとで……一人で帰るのなんだか怖くてさ?ダメかな?何か予定ある?あるなら無理しなくて大丈夫だよ」
葵ちゃんの声は、少しだけ震えているように聞こえた。夕焼けが彼女の頬をほんのり赤く染めている。
「ない……けど……」
「じゃあさ……お願い!」
葵ちゃんは少しだけ潤んだ瞳でボクを見上げて言った。そのキラキラとした上目遣いと、少し強引な勢いに、ボクは完全に押し切られてしまった。心臓がドキドキと高鳴り全身が熱くなるのを感じる。
でも……葵ちゃんと一緒に帰れるなんて本当に嬉しい。思わず顔が緩みそうになるけれど慌てて口元を引き締めた。
「でも……ボクと一緒にいたら……藤咲さんが、迷惑すると思うし」
「迷惑?なんで?」
「ほら、ボク……暗いし、オタクだし……釣り合わないと思うし……」
葵ちゃんは、ボクの言葉をじっと聞いていたけれど、ボクが言い終わるとキョトンとした表情を見せた。そして次の瞬間、ふわりと優しく微笑みながらこう言った。
「白瀬君、それさ……付き合おうとしている人が言うセリフじゃない?」
「えっ!?いや……あの……違……」
ボクはあまりのことに言葉を失い、顔が真っ赤になるのを感じながら慌てて否定した。心臓が今にも飛び出してしまいそうだ。
「あはは。冗談だよ。あ。もしかして遠回しにお断りしてる?」
「そんなこと……ないよ!」
「それなら一緒に帰ってほしいな。別に私は気にしないよ?そもそも白瀬君とはクラスメートじゃん。ほら行こう?」
そう言って葵ちゃんは、くるりと踵を返して、そのまま夕焼けの道へと歩き出した。ボクは突然の出来事にまだ頭がついていかない。
でも……こんな何の取り柄もないボクを、ありのままのボクを、肯定してくれた葵ちゃんの言葉がそれ以上に嬉しくて、胸の奥がじんわりと温かくなった。ボクは少し遅れて、葵ちゃんの背中を追いかけた。茜色の空の下、二つの影がゆっくりと伸びていた。