22. だと思う
「ただいま」
玄関に響かせた声は、いつもより少しだけ上ずっていたかもしれない。心臓がトクントクンと早鐘のように打ち、全身が内側からじんわりと火照っている。
いつもの『白井雪姫』としてではなく『白瀬優輝』のままで、あの葵ちゃんとあんなにも近い距離で話せたのだから無理もない。
「おかえり、おにぃ」
いつものように妹の真凛の声が飛び込んできた。明るく、少しばかり気の抜けたその声は、日常の風景と何一つ変わらない。けれど、今のボクにとってはどこか遠い世界の出来事のように感じられた。
「なに?おにぃ、いいことでもあった?」
「え?」
「なんかすごく嬉しそうにニヤニヤしてるけど?」
そんなに顔に出ていただろうか?自覚はなかったけれど無理もない。だって初めて『白瀬優輝』として、あんなにも親しく葵ちゃんと話せたのだ。一緒に駅まで帰り、他愛ないことで笑い合った時間はまるで夢のようだった。
その勢いに乗せられたのだろうか。まるで堰を切ったように、ボクは無意識のうちに真凛に相談事を持ちかけていた。
「あのさ、真凛。次のデートどこに行ったらいいと思う?」
「は?え!?ってか、なんでアタシに聞くの!?」
真凛は目を丸くして盛大に驚いている。そりゃそうだろう。普段、恋愛沙汰とは無縁の兄が、いきなりデートの相談だなんて。
「それは……兄妹だし、真凛しか相談できる人いないっていうか……ダメかな?」
少しだけ声を小さくして遠慮がちにそう言うと、真凛は一瞬、戸惑うが腕を組んでしばらく考え込む素振りを見せた後、ボクに呆れたような視線を向けながら言った。
「そもそもデートって、葵ちゃんとでいいんだよね?」
「うっ……うん!」
「……やっぱり、好きなんだ」
「好き……だと思う」
まだ、自分の気持ちに確信が持てない。けれど葵ちゃんのことを考えると、胸の奥がキュッと締め付けられるようにドキドキしていてもたってもいられなくなるのは紛れもない事実だ。
「だと思う?まぁ、いいや。おにぃが葵ちゃんのことを好きなのは分かった……でもさ……その前に……おにぃはどうしたいわけ?」
「えっ」
真凛の問いかけは核心を突いていた。どうしたい?改めてそう問われると言葉に詰まってしまう。
「今のおにぃは『白井雪姫』じゃない。まぁ、変装しているから、万が一のことがない限り葵ちゃんは気づかないだろうけど、バレたくないんでしょ?」
もちろんバレたくない。あの夢のような時間を壊したくない。けれど……このままでいいとも思っていない。いつの間にか、そう思うようになってしまったのだ。仮面を被った自分ではなく、本当の自分を知ってほしいという、小さなけれど確かな願いが胸の奥で芽生え始めている。
「あまり色々言ってもおにぃが可哀想だから、今は週末のデートのこと考えてあげるか」
「ありがとう」
感謝の気持ちを伝えると、真凛は、ポンポンと自分の隣のソファーを叩いた。
「ほら。早く座って。作戦立てるよ?」
ボクが……どうしたいのか……
葵ちゃんと、どうなりたいのか……
そんなことをぼんやりと思い浮かべながら、ボクは真凛の隣に腰を下ろした。週末のデートに関する秘密の作戦会議が、こうして始まった。色々なアイデアを出し合って話していると、突然、真凛が何か良いことを思い付いたかのようにパッと顔を輝かせた。その顔はどこか企んでいるようにも見えた。
「あのさ、おにぃ?」
「なに?」
「週末のデートさ……アタシも、行ってもいい?」
「えっ!?なんで!?ダメだよ!葵ちゃんに迷惑だし!」
思わず語気が強くなってしまった。二人きりの大切な時間を邪魔されたくなかった。それに葵ちゃんがどう思うだろうか。
「じゃあ、葵ちゃんに聞いてみてよ」
「いや……その……」
「ほら早く」
真凛がボクを急かしてくる。なんでそんなことをするんだ?一体、何が目的なの?そんなことを考えていても仕方ない。今は真凛に相談に乗ってもらっている立場だし……それに、真凛の真意を探る意味でも、聞いてみるしかないのかもしれない。
そしてボクは、渋々スマホを取り出して葵ちゃんへメッセージを送ることにした。
「えっと……なんて送れば?」
「は?それもアタシが考えるの?……じゃあ『葵ちゃんの話をしていたら、どうしても妹が会いたいって言ってるんだけど……葵ちゃん嫌だよね?』にして」
「これ……断りにくくない?それになんで真凛が会いたいの?」
「アタシの事は、いいでしょ!ほら早く」
真凛に背中を押されるようにして、言われた通りのメッセージを送信した。送信ボタンを押した途端、心臓がドキドキと音を立て始めた。葵ちゃんは、どんな返事をくれるだろうか。不安と期待が入り混じった落ち着かない時間が流れる。
そして、思ったよりもずっと早く、葵ちゃんから返事が返ってきた。
『え?家で私の話してるの?恥ずかしいな。雪姫ちゃんの妹さんってどんな子なんだろう……私は全然大丈夫だよ』
「……」
ボクはスマホの画面に表示された、葵ちゃんの意外な返信に言葉を失ってしまった。予想していたよりもずっと友好的で、むしろ楽しみにしているような文面だったからだ。
「葵ちゃん、なんて?」
「なんか思ったよりノリノリだった……」
本当大丈夫なのだろうか?社交辞令という可能性も捨てきれない。そう思いながらもボクは真凛の方をちらっと見た。すると真凛はニヤニヤしながら、まるで何かを企んでいるかのように楽しそうに言った。
「楽しみが増えたね、おにぃ?」
「うっ……うん……」
なんでそんなに嬉しそうなのだろう?真凛の考えていることが全く読めない。でも……真凛に相談に乗ってもらって、結果的に葵ちゃんも喜んでくれているのなら、これで良かったのかもしれない。こうして週末のデートに真凛も来ることになったのだった。