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後始末


 喉の奥に残る濃い煙草の臭いが鼻腔を突く。


 「一応聞いておきたいんだが……もう糸繰りの落下物は出現しないんだな? 犬神」


 「絶対に出ないっては言えないけど、一から二年は大丈夫だと思うよ咲洲さん。堕慧児は始末したし、人繰りの魔人も二度死んだからね」


 「完全に滅することは出来ないのか?」


 「咲洲さん、それは無理だ。その問いの答えはさ、人類全員死んじまえって言ってるようなもんだ。九龍の掃除屋でもパンピーを皆殺しにするのは気が引ける」


 「そうか……」


 重い瞼をゆっくりと開き、汗で湿った革張りのソファーから頬を引き剥がした飯野は、テーブルを挟んで向かい合う犬神と咲洲へ視線を向ける。


 「おはよう神楽さん、気分はどうだい?」


 「……」


 最悪です―――その言葉を飲み込み、煙草を吸う犬神を一瞥した飯野はカラカラと回るリビングファンを見上げる。


 「飯野さん、飯島三郎の件は」


 「大丈夫です」


 「……」


 「全部、見せてくれましたから。どうして叔父さんが魔人になったのか、どういった経緯で落下物が叔父さんの手に渡ったのか……マリグナントさんが教えてくれたので。だから、大丈夫です」


 嘘だ。本当は全然整理なんか出来ていないし、血の記憶を通して見せられた光景……叔父である飯島三郎がクラフト・ヴェンディング商社から九龍の落下物を購入した事実を、飯野は自分の中で理解することは出来なかった。


 もしクラフト・ヴェンディング商社が祈祷者のフロント企業であったのなら、怒りの矛先を向けるのは当然九龍の何処かで蠢く黒衣の集団だ。彼女の日常を木っ端微塵に破壊し尽くし、家族を奪った謎の組織を憎むべきだろう。


 だが、それでも、叔父に罪が無かったとは言えない。心の隙間を突かれ、落下物の魔力に取り憑かれ魔人に堕ちた。最終的には警察署にごった返していた犯罪者や不法入国者を殺し、喰らい、己の中で燃え盛る欲望を吐露した叔父は人間として壊れていたのだから。


 「……一応警察官として、これからのことを説明してもいいかな?」


 「どうぞ」


 「飯野さんには二つ選択肢がある。一つは全部忘れて……警察機関と協力体制にある魔人の力を使って、今後君に危害が及ばないよう記憶を弄る選択」


 「……」


 「俺は勿論この選択を選んで欲しいし、九龍に関する記憶は無い方が良いと思ってる。記憶操作の後は護衛……私服警察官が一年間飯野さんから見えない位置に配置される予定だ。魔人案件、九龍被害者は大体この方法を選択するよ」


 「もう一つの選択は?」


 「それは」


 「神楽さんが俺かマリグナントに保護されて、九龍に移り住む選択だ。咲洲さん、ハッキリ言ったほうがいいよ、もうコレ以外選択肢は無いってさ」


 吸い切った煙草を灰皿に押し付け、深い溜息を吐いた咲洲は横槍を入れた犬神を睨む。


 「……言い方には順序ってものがある。違うか? 犬神」


 「咲洲さんの言う通りだよ、順序を守らなくちゃ駄目だけど……神楽さんの場合は違う。それに関しては俺から説明した方が早いよ、咲洲さん」


 ソファーから立ち上がった犬神は新しい煙草を口に咥え、マッチ棒で火を着けると紫煙を吐きながら薄いブラインドを指で弾く。


 「神楽さん、君には呪印が二つ刻まれている。一つは俺が刻んだ右目の呪印、それは身の安全を守る為のもの。君の意志一つで黒狼は九龍第五階層から現れるし、敵意を持つ存在……呪物とか呪具、魔人も相手にできる」


 「……もう一つは」


 「子宮の呪印、それが一番の問題なんだ。どんな理由か知らないけど、祈祷者は神楽さんを何かの依代……母胎にしようとしている。君が記憶を失っても、どんな場所に居ても、祈祷者は必ず君を見つける。武装警察官や並の魔人はあの狂人共の相手にならないだろうさ」


 「つまり、もう私は日常……普通の人生を歩めない。犬神さんはそう言いたいんですね?」


 「理解が早くて助かるよ」


 驚かなければ絶望もしない。飯野の胸にあったのは未だ拭えぬ喪失感と諦念。犬神の話を半ば他人事のように聞いていた少女は少しだけ笑う。己を嘲るように、声も無く。


 「選択肢なんか無いじゃないですか、初めから」


 「そうだね」


 「九龍に一生閉じ込められて、死ぬまで待つ。家畜みたいですね」


 「皮肉が上手いね。結構好みだよ、その文句は」


 涙を流せと、泣けばいいと九龍の掃除屋は言った。だが、置かれた状況を鑑みれば涙を流す前に笑いが込み上げてくる。死が訪れる時を九龍で待ち、祈祷者に怯えながら生きるなど最悪だ。


 「いいですよ、九龍に居ればいいんでしょう? 退学願いとか色々準備しなけきゃいけませんね」


 「いや、その必要は無いよ」


 「どういう意味ですか?」


 「あー……制度的な話は咲洲さんの方が上手いからね、頼むよ先輩」


 「……犬神の言った通り、君は何時も通り学校に通ってもいいし、自分の家に帰ってもいい。君の護衛を務める魔人は」


 「私だからよ? 飯野ちゃん」


 事務所の扉が開き、スーツ姿のマリグナントが分厚い茶封筒片手に飯野の隣に腰を下ろす。濃い血の香りに顔を顰め、飲みかけの輸血パックが否応なしに視線を奪う。


 「これから宜しくね、安心なさいな私に歯向かう馬鹿なんて新参者か愚か者だけだもの。あぁ一応これ、私の名刺ね」


 「……聞いてた話と少し違うような気がしますが」


 「悪いね神楽さん、本当は俺が護衛に付きたかったんだけど、意外と九龍の掃除屋も忙しいのさ。知り合いの魔人にも声掛けたんだけどさ、やっぱりみんな祈祷者って聞くと良い顔しないんだよね。だからマリグナントが選ばれた」


 「それでも話が見えないんですけど? あの、私結構覚悟したんですよ? え? 学校辞めなくてもいいんですか?」


 「……三人とも少し静かに。詳しい話は俺からする」


 マリグナントの登場に蟀谷を押さえ、疲れ切った溜息を吐き出した咲洲からドスの効いた声が漏れる。


 「飯島さん、先ず君は学校を辞めなくてもいいし、これからの人生を自分で選び取る責務がある。それは万人に与えられた権利であり、義務だ」


 「はぁ……」


 「学業、就業、生活、今後の人生設計……君は一度に多くのモノを失った。だが、それでも生きていく限り選択を取り続けなければならない。俺の妻も……九龍で多くを失った人間だった」


 「刑事さんの奥さんも?」


 「あぁ、妻は犬神と同期でな。五年前に色々と無くして、九龍の事件に関わった人間の末路を多く見てきた。不幸になった人、それでも前に進み続けた人、魔人になってしまった警察官……。忘れた方がいいのは本当なんだ。けど、君にはその選択すら許されていない」


 咲洲が妻の話を出した瞬間、犬神の表情が氷のように固まった。


 「ならせめて、君が自分で明日を決められるようにするのが大人の責任なんだと俺は思う。犬神は掃除屋の仕事で手一杯だし、他の魔人も信用できない。そこで俺が選んだのがマリグナント・イェラ・スエーガー。奴はイカれてるが、犬神を裏切れない」


 「褒めてくれるの? ワンちゃん」


 「黙れよ吸血鬼。飯野さん、もし分からないことや、九龍について聞きたいことがあったら遠慮せず俺と犬神に聞いてほしい。呪具や呪物程度なら俺でも力になれるから」


 「あの、ありがとうございます。えっと……家に帰っていいっていうのは」


 茶封筒に詰め込まれた札束を一枚一枚丁寧に数えていたマリグナントが指を弾き、血の扉を形成すると飯野の自宅と事務所を繋ぐ。


 「九龍は何処にでも繋がっていて、何処にも繋がらないの。『扉』を開ける魔人は少ないのよ?」


 「扉って」


 「どうせ近い内に九龍に来ることになるんだもの。事務所と繋いでおけば安心よね」


 そう言ったマリグナントは飯野を血の腕で抱え、扉の向こう側へ歩き、


 「マリー」


 「なぁに? 犬神」


 「後は頼んだぜ?」


 「勿論」


 血の扉を閉じ、


 「犬神、あの子はこれから」


 「大丈夫だよ」


 「……」


 「昔みたいなヘマはしないからさ」


 犬神もまた眼下に広がる夕暮れの新宿へ紫煙を吐いた。


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