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狂気を眼に、欲望を脳髄へ



 心を見せず、望みを捨てず。


 スラリと伸びた影が嘲笑を湛え、涙を流す影を見やる。さめざめと泣いては嗚咽を吐き、涙で濡れた掌から血が滴り、溢れて零れ落ちると染み一つ無い白の床に幾つかの点を打つ。


 泣いているのではない、瞳から流れる液が止まらぬのだ。嗚咽を吐き出しながら泣く者は清く正しくあらねばならぬ。影の持つ欲は到の昔に腐れ果て、九龍の嘆きを聞いては涙を流せぬ存在の代わりに涙を流す。故に、零れる涙の一滴には影の意思は存在しない。


 「魔人は涙を流さない、故に狂わねば生きられない。狂いながらも生を貪り、貪る生に飽きた者は怒りを他者へ向ける。何故こんなにも苦しまねばならないのか、何故この痛みは拭えないのか……利己的な動機に突き動かされるのが人間だと、僕はそう思うね」


 伸びた影が泣く影の肩に手を添え、嘲笑の仮面をゆっくりと剥ぐ。


 「泣く子、君は一体何を見て、何を感じて泣いている。自責の念か? それとも他人への怒りか? 九龍は何故泣いている。どうして君が泣き喚くほど苦しんでいる。 教えてくれ、泣く子」


 「耐え難い憤怒が九龍の胎内で暴れ回っている……」


 「……」


 「千の魔狼が堕慧児を食い散らかし、掃除屋が罅割れた剣を振るっているんだよ……溶かして喰らい、喰らっては力を付ける肉食獣……。臓腑に牙を突き立てられて泣かない子供なんていないだろう? 水仙の魔人」


 「誰かの痛みに敏感じゃなければ、その苦痛を知る由も無し。自分だけが愛しいから、自分だけを愛していたいから、僕は誰かに興味を持つことは無い」


 「だからこそ、この涙は君にとって意味のある液体なのだろう。私にとって無意味であろうとも、無価値と断じようと、君は涙の意味を解釈する。暗幕が降りた硝子窓を眺め

るように……都合よく」


 涙を流したまま笑顔を浮かべた影は、仮面を被り立ち上がる。ムンクの叫びに描かれた男を想起させる仮面は流れる液に濡れ、酷く歪んで見えた。


 問答に意味など無いし、空気で形作られた言葉は彼等……仮面を被る影達にとって無価値。会話をしても声は空気を震わせる振動であり、それを鼓膜が拾って脳が言語を再構築するだけ。心を見せず、望みだけを吐く様は独り言を呟く白痴の姿。


 スゥと両の手で面を擦り、笑みを浮かべた泣く子は椅子に座す影を見やる。


 脈打つ肉の繭へ背を向け、フードを深く被った影は肘掛けを軽く叩き、鬼面を被る。右目の部分だけを刳り貫いた奇妙な面。濁り蠢く真紅の瞳を影達へ向けた鬼面は腰を上げ、泣く子の肩を軽く叩いた。


 「掃除屋は此処を知らぬ。知らぬのなら辿り着けずに力尽き、力尽きぬのなら無意味な憤怒を燃やすだけ。貴様が涙を流す理由など何処にも無い」


 安堵とも苦心とも捉えられる息を吐いた泣く子を影が嘲笑う。


 「祈りし者、導師の言葉は心を撫でられる」


 「養殖師、誘惑者は何処だ」


 「さて、万魔殿の跡地にでも赴いているのでしょう。彼女の始まりの場所で紅女王を眺めているのか、見つめられているのか……それは私には分かりませぬ故に」


 「尾を出す程間抜けではないと信じているが……迎えを出せ。アレにはまだやらねばならぬ事が残されている。無論、貴様にもだ」


 「御意に」


 「我等が導師よ」


 「解剖医、貴様は例の娘を診ろ。十六夜の血を此処へ導くのだ。仮面を被り、貴様の愛を説くがいい」


 「愛は利己的なもの故に、我が愛は無貌なる自愛。それでも構わないと?」


 「祈祷者は利己的エゴイストであり、利他的アルトゥリストでもあらねばならぬ。貴様の愛であろうとも、それが必ずや利己的である筈もなかろうに」


 「理解しているかのような口ぶりですね、我等が導師。こんな言葉を聞いたことはおありで? 憧れとは愛から最も遠い感情だと」


 「貴様が私に憧れていると? 勘違いするなよ解剖医……貴様は私に憧れを抱く己を愛しているだけに過ぎない。ナルキッソスの花はまだその手にあるのか? 答えよ、水仙の魔人」


 「花弁が落ちようと、根があればまた花は咲きましょう」


 「ならば良し」 


 真紅の瞳が影を一望し、肉の眉へ視線を向ける。


 鮮血の中に見えたのは千切れて砕けた臓腑の海。揺蕩う目玉が独りでに影を瞳に映し、興味を失ったかのように赤の海をゆらりと泳ぐ。


 「九龍は生きているのでしょうか」


 「生きているし、死んでいる」


 「死しているのならば何故彼女は貴男へ眼を向けたのでしょう」


 「私を犬神宗一郎と見間違えた故に」


 「……犬神宗一郎を殺めるということは、九龍へ牙を剥くという意味でしょう。五年前の悪夢を振りまくには時期尚早かと」


 「養殖師よ、貴様はナイフの握り方を知っているか?」


 「えぇ、それは勿論」


 「何故ナイフが紙を裂き、肉を断つのか……それは握る者の使い方によるからだ。紙を裂く方を知らぬ者から見れば、ナイフなど果実の皮を剥く為の道具。肉を断つ意味を知らぬ者がナイフを握れば、全く別の使い方を思いつくだろう」


 「握る者の裁量次第……貴男はそう言いたいのですね? 我等が導師よ」


 「如何にも。故に九龍は握る者を選ぶのだ。指輪を授け、秘宝を与え、九龍の所有権を握らせる。犬神宗一郎は九龍に選ばれ、秩序と混沌を選び取れる掃除屋として其処に在る。握り方さえ知り得れば……九龍は我等に傾くだろう」


 「それが貴男が此処……九龍第六層で得た叡智ですか?」


 「如何にも」


 布が擦れる音が白の伽藍に響き渡り、鬼面の右腕が露わとなる。


 低く、疲れ切った男の声と似つかわしくない少女の腕。生白い肌を筋肉の上に張り合わせ、しなやかで青い血管が透く細い腕。


 「随分と身体に馴染んだようですね、我等が導師」


 「代償は計り知れぬ」


 「それでも尚求めた力は甘美な蜜となりましょう」


 「腕を奪い返す為に掃除屋は我等を憎み、憤怒に染まりし炎を向けるだろう。其処に彼女の身体が無いにも関わらず、狂気で刃を染めるのだ。それは実に……『悲しいだろう』? 涙が溢れる程に『嬉しいのだ』」


 男の声に女の声が混じり、鬼面の意志と反して綺麗な指先が宙に譜を描く。


 「書記官は居るか」


 「此処に」


 複雑怪奇な譜面の仮面を被った影が一歩踏み出し、腕を睨む鬼面の側に立つ。


 「記録せよ」


 「御心のままに」


 「我が社の商品を望む者が居る。誘惑者へ連絡を……クラフト・ヴェンディング商社が動くと」


 「御意」


 「新たな魔人が生まれると?」


 そんなことを聞く方が愚かしい。ペスト医師の仮面を被った影……養殖師は指を鳴らして扉を呼ぶ。行き先は九龍第五層の養殖場。落下物を生産する堕慧児を飼っている場所。


 「掃除屋に気を付けろ、養殖師」


 「あそこは掃除屋でも近づかんだろうな、解剖医」


 「だが獣は居るだろう? 手を貸そうか?」


 「結構、庭を荒らされて気分を良くする庭師は居ない」


 「だろうな、僕は……本業に戻るとするよ。貴方達と話していたら僕が僕でなくなっちゃうからね」


 「貴様こそ狼に気をつけろよ? 奴は人間であるが……九龍に最も近い場所に立っているからな。私の方こそ手を貸そうか?」


 「要らないよ、尻尾を出すほど愚かじゃないと思いたいんでね」


 「……心にも無いことを言うなよ? なぁ、破滅願望持ち」


 「君にそう言われるなんて心外だなぁ、逆に聞いてみたいよ僕は。どうしてみんなそんなになってまで生きたいのかをね」


 クツクツと笑い合い、殺し合い寸前にまで昂った二人を真紅の瞳が見つめる。


 つまらない死を迎えたくはないし、もっと面白いものを見てみたい。殺気を鎮め、互いに肩を叩いた養殖師と解剖医は白の伽藍を後にする。


 「我等が導師よ」


 「飯野神楽……否、十六夜神楽へ毒を撒け。九龍へ背を向けることが出来ぬように、足を向けざるを得ぬように……貴様の涙があれば不可能ではないだろう? 泣く子よ」


 「魔人、呪具、呪物、狂人……如何なる存在を使ってもよろしいのであれば」


 「許す」


 「感謝します……導師」


 影達が伽藍を去り、肉の繭を一瞥した鬼面は一人「時は迫れり」腕を黒衣で包んだ。


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