フィンはバカでかい身体を大きく折り曲げて、オレの眼前に顔を寄せた。これほど近づいても、石膏のような仮面の中は、何ら透けて見えなかった。
「気になりますかねぇ、ロックランス村の過去が〜〜?」
「お、おう。近い。少しは離れろ」
フィンが背筋を伸ばして続けた。
「ンンン〜〜でも忘れました! 綺麗サッパリに。アハハ〜〜!」
「マジでフザけんな! 仮面ごとすり潰すぞ!」
「そもそもアナタの方が詳しいのでは? ほら、お家の書斎にセイドリックの自伝ですとか、あるいはお父上の日記があるでしょうにねぇ〜〜」
「書斎……!?」
オレは一気に肝が冷えた。そう、本という本なら先日、怒りに任せて焼き尽くしてしまった。あの中にロックランスや槍遣いに関する秘密が残されていたとしたら――。
取り返しのつかない事を。オレは心に燃え盛る焚き火を思い浮かべ、膝を屈したくなった。
「あぁ、でも家を焼かれてしまったんですよねぇ〜〜。あの様子では全てが灰になった事でしょう。いやはや、残念無念」
「おっそうだな。あれじゃ1冊も残ってないな。仮に本が今日まで無事だったとしても読もうって気にならなかったから結局は何も知らないまま焼かれたって事で結末は変わらないという事だ。それはしょうがないな!」
「んん〜〜急に早口ですね。何か特別な事情でも?」
「やめろ詮索すんな。オレの領分だ」
「まぁ焦らなくてもよいでしょう。これからは故郷を離れて遠くへ行くのですから。行く先々で知ることも多いはずで、槍遣いの過去だっていずれ分かる事ですよ」
確かに、オレは外の事を何も知らない。頻繁に出かけた親父とは違い、16年もの間、村とその周辺で生きてきた。
まだ見ぬ世界は、どんなところか。にわかに胸が踊りだす。
「しかしライルさん。アナタは莫大な借金を抱えており、返済義務があることをお忘れなく。最重要課題ですよ」
「水を差すな。せっかく気分が盛り上がったのに」
「それではこの辺で。月末の利息金をお忘れなく〜〜」
「チッ。いつまでも払い続けると思うな。明日にでもエリスグルはブッ壊してやる」
「そんな短慮で生きていけますかねぇ。ウッカリと『違い羽根』の連中に殺されちゃうかも!」
「なっ!?」
オレはいきなり斬られた気分になる。村長のローブには、確かに見慣れない紋章が刻まれていた。今でもハッキリ覚えている。交差する羽根の形をしていた。
「おい、やっぱり何か知ってるんだろ!」と怒鳴りつけるが、答えはない。フィンはマントを翻すと、一匹のコウモリに姿を変えて闇夜に消えた。
盛大な溜め息を吐き散らしたオレは、草っぱらに寝転がり、夜空を見上げた。
「クソッ。あの野郎、バカにしやがって……!」
聖槍、借金に続き、違い羽根なんてものが頭をもたげた。オレの人生が渦中に巻き込まれた感覚はある。しかし、今何がどうなっているのか、結論は見いだせない。知らないことがあまりにも多すぎる。
起き上がる器量は失せた。寝そべったまま、星のきらめきをボンヤリ眺めていると、アイーシャがそっと覗き込んできた。
「ねぇライル。そろそろご飯にしない?」
「そうだな。さすがに腹減った」
「今用意するね。ボアちゃんもお腹空いたでしょ?」
「フゴッ」
「よしよし。もうちょっと待っててね〜〜」
いつの間にやら、アイーシャはエビルボアーと馴染んでいた。ダンジョンではキャアキャアと喚き散らし、暴風に震えるツクシのような怯えっぷりが嘘のようだった。
「まずは火起こしして、と。何を作ろうかな、お手軽に煮込みで良いかな」
そうして準備を進める今も、オレは空だけを見ていた。心に去来する物事が、活力を奪うようだった。
苦労してダンジョンを踏破したが、金は手元に残らず、評価が上がったわけでもなく。ただの骨折り損で、得るものは何も無かった。その事実が重たくて仕方ない。
(いや待てよ。何も無かった、つうのは言い過ぎか)
火を起こすアイーシャに、エビルボアーが大きな鼻をこすりつけていた。そして小さな笑いが起きる。こんな和やかな場に自分が同席している事は、今さらながら不思議に思えた。
(まともな人間関係と言ったら、親父くらいか。あのコミュ障と)
村人たちはオレとまともに関わらなかった。幼馴染の三バカですら、毎日のように悪意を向ける始末。裏山の野鳥や野ウサギの方がよっぽど好意的で、親しかったと思う。
(オレは今初めて、1人の人間として扱われてるのかもな……)
2人と1頭を焚き火が照らす夜――。魔獣が団らんに顔を並べるのはおかしいが、悪い気はしない。
「ボアちゃん、袋の中は漁らないでね。そこには色々と入ってるからさ」
「フゴゴッ」
「あ、待ってマジ。食材も残り少ないの。皆で食べたほうが美味しいから、ね? いったん落ち着こう?」
「フゴッフゴッ」
そんなやり取りが続く中、アイーシャが言った。
「ごめんライル。ボアちゃんに全部食べられちゃった……」
アイーシャが薄くなったバッグを指さして言った。半身を起こしたオレはエビルボアーに向き直る。
「良い度胸だなデカブツ。お前はどっかの山で捨ててやるから、覚えておけ」
ムリムリ。所詮、魔獣は獣。共存なんて出来る訳が無い。
結局はアイーシャが懇願したことで、魔獣の放逐は免れた。それからオレたちは腹を空かせたままで、一夜を過ごすハメに。思いの外疲れていたらしく、睡魔が空腹感を上回るのは割とすぐの事だった。
翌朝。焚き火が白い煙を昇らせる中、気づく。
「エビルボアーが居ない……逃げたか」
それならそれで構わない。そもそも、昨晩の方が異常だった。魔獣と一致団結して逃げた挙げ句、ノンキにも焚き火を囲むだなんて。おとぎ話レベルだと思う。
「ん? どうしてこんなところにキノコが?」
焚き火の向こうには、何かキノコや木の実が集められていた。アイーシャかと思うものの、そちらは半口開けての夢見心地だ。
じゃあ誰が――。と思ったところで、辺りが微かに揺れた。それから間もなく巨体が現れた。
その口に、木の実をくわえながら。
「なんだ、お前の仕業かよ」
「ぽぇぇ〜〜」
エビルボアーが情けない声を出しながらすり寄ってくる。オレはその頭をガシガシ掻いた。
「分かったよ、許してやる。だからその声やめろ」
「プギッ」
ここでようやくアイーシャも身体を起こした。眠たい目を擦りながら言う。
「おはよ……。朝から元気だね君たちはさ〜〜」
「見ろアイーシャ。こいつが自責の念に駆られて、食い物を集めてきたぞ」
「えっ食べ物!? それじゃあさっそく朝ごはんにぃ……」
喜色満面の笑みが、徐々にこわばっていく。食材のラインナップを目にしたせいだ。
爆裂茸、タダレ草、アタールの実。どれもこれも毒のあるものばかりだ。まともな人間なら飢えたとしても口にしない。
これは遠回しな殺意か。オレたちを毒殺したい意思表示なのか。しかしエビルボアーは、今にも食いつきそうな様子なので、こいつにとってはゴチソウかもしれない。
「アタシらが食えるのはコレだけかな、ありがと〜〜」
アイーシャは毒物の山を選り分けて、その大半をエビルボアーに譲った。オレたちの分は、一抱えほどのクルミだった。
ひどく質素な朝食だが見た目ほど悪くない。空きっ腹に数個のクルミ。まったくもって足りない量だが、不思議と不満は少なかった。
(賑やかな朝食も悪くない。飯なんて、親父が生きてるうちも1人で食ってたしな……)
オレたちが質素で腹を埋める中、エビルボアーはガツガツと食らう。大量のキノコも草も、アタールやグリドンの実も殻ごと食う。食事量からして、どっちが飼い主か分からなくなる。
そしてアイーシャ。頬をリスのように膨らませては、虚無の顔でどこかを見つめていた。
「なぁお前、もしかしてクルミが……?」
「話しかけないで。今、口の中で死闘を繰り広げてるの」
「嫌いなら、食う前にそう言えよ」
やがて食事は終わる。満腹でごきげんな様子のエビルボアーを他所に、クルミを涙目で咀嚼したアイーシャが言った。
「さてと、ご飯も片付けたし……行きますか!」
アイーシャが切り替えるかのように言った。
「待てよ。行きますかってなんだ」
「このまま北を目指した方が良いよ。そこにはエイレーネっていう大きな街があって、仕事も人もたくさんだし――」
「違う違う。なんで一緒に旅をする前提なんだよ」
街について講釈をたれようとしたアイーシャが固まる。そして急転直下、泣き顔に変わった。
「えっ!? この先も一緒じゃないの? これから高額案件を支え合いながらクリアして、ウハウハ稼いだり、有名人になったり! 旅の途中でもアタシが水浴びするところを覗かれて『もう! ライルのエッチ〜〜』みたいな展開は?」
「ないない。お前とはロックランスのダンジョンでたまたま知り合っただけだろ。別に仲間と決まったわけじゃ――」
すると次の瞬間、アイーシャが大荷物ごと飛びついてきた。ピンクのサラサラ髪が、頭ごと頬に突き刺さる。あまりの衝撃に息が止まりかけたし、そもそも痛い。しばくぞ。
「いてぇな……。お前、もうちょっと周りを見ることも」
「お願い連れてって! 今回ので分かった、アタシ冒険者に向いてないよ、めっちゃくそ怖かったもん!」
「そうだろうよ。だったら冒険なんてやめて、別の仕事をだな――」
「でも続けたいの! 稼げる手段だって他にもないし! ライルだってお金が必要でしょ? たんまり稼いで、あの不気味なオッサンにお金を用意するんでしょ? だったらアタシと一緒に冒険者をやろうよ!」
「いやオレの場合は、金も必要と言えば必要だが、槍を壊せれば十分で。そっちがメインだ。借金がチャラになるっていう特約があるからな」
「あっ、つまり壊すってのは、冗談じゃなく……?」
「こいつは特別製の槍だ。壊すには強敵を相手にしなきゃならん。とんでもないバケモノや、賞金首なんかを率先して当たるんだ。そんな旅について来れるのか?」
「それは、その……」
「分かったら諦めろ。安全な所までは同行してやる」
アイーシャには何か事情があるらしい、モジモジと手元を遊ばせ、何かいいたげだ。しかし知ったことじゃない。オレは一刻も早くエリスグルを壊す必要があった。
連れの事情や能力に構う余裕なんてない。ここでお別れするのが最善の選択肢だった。
そう思っていたのだが――。
「アタシがいたら、錬金術でご飯が簡単に作れるよ。実質タダ飯が食べられるんだけど」
「お前とは上手くやれそうだ。引き続きよろしく頼む」
しまった。胃袋の呪縛が恐ろしい。オレは二つ返事でオッケーしてしまった。
それを聞いたアイーシャは、エビルボアーと小躍りし始めた。
「やった、やった、皆と一緒〜〜」
「ブゴッ、フゴ〜〜」
「いやいや、お前はダメだデカブツ。ここに置いていくぞ」
「プギッ!?」アイーシャとともに、心外だという顔を向けてきた。
「どうしてよライル。この子、すっかり馴染んだのに!」
「理由が知りたいか? 考えるまでもないだろ」
オレは手招きして、草原を後にした。そして南北をつなぐ街道まで戻ったのだが、もちろん周囲はパニックに陥った。
「うわぁ! 魔獣だ、しかも大型だぞーー!」
「逃げろ逃げろ! 食われちまう!」
旅人も馬車を駆る行商人も、全員が我先にと逃げていった。人の姿は完全に消え失せて、砂埃だけが残された。
「こういう事だ。連れ歩けない理由が分かっただろ?」
「ひどい、あんまりだ……。ボアちゃんは確かに見た目がイカツイけど、こんなに良い子なのに!」
「オレも事情を知らなかったら、刃物を向けてると思うが」
このシーンはそこそこ揉めた。別れる、嫌だの繰り返し。何が厄介って、エビルボアーもある程度言葉が通じてしまうせいだ。
野生に帰れと言っても、やたらポエるので、上手くいかない。強引に立ち去ろうとしても背後から追っかけてくる。とにかく手を焼いた。
「いっそのことブチのめすか? 聖槍の恐ろしさを思い出させてやっても良いんだぞ」
「プギッ! ぷぎぃ〜〜!」
「待ってライル。もしかしてボアちゃんは、一生の別れになるのが嫌なんじゃない?」
「プギッ!」そう答えては、首を縦に振り、尻尾までピコピコさせた。
「そういうことかよ……。気持ちは理解したが、無理だろ。連れて歩けないんだから」
「だったら、また会えるようにすれば良いよ。良いもの持ってるんだぁ」
アイーシャは荷物を漁り、革紐を取り出した。真鍮のような鈴も着いている。
その紐をエビルボアーの首に結んだ。
「これはね、相手の事を思い浮かべながら喋ると声が届く。そういうアイテムなんだよ。見た目よりも頑丈だから、簡単には取れないしね」
鈴は対をなしていて、もう片方の鈴を手に取って、アイーシャは告げた。「ボアちゃん。今エイル湖にいるの。会いに来て〜〜」
すると、首に下げた方の鈴が軽やかに鳴るとともに、全く同じセリフが復唱された。
「これでまたいつでも会えるから。お別れじゃないよ」
アイーシャは、片割れの鈴を腰に引っ掛けた。そしてエビルボアーの首を抱きしめた。だいぶ親密な様子で、長らく連れ添った関係に見える。
いや、せいぜい一日の付き合いだぞお前ら。しかも出会った当初は、命のやり取りした事を忘れんなよ。
「元気でね〜〜! また絶対、一緒に旅しようね〜〜!!」
「ぽぇぇ〜〜!」
無事に感動的な別れも終えて、ようやく移動を再開できた。街道は一時は混乱したようだが、エビルボアーが森の中に消えたこともあり、落ち着きを取り戻していた。
「さぁて、エイレーネ目指して一直線だ〜〜!」
「ところでアイーシャ。ひとつ良いか?」
「なぁに? チリンチリン」
「お前はなんで金を欲しがるんだ? 錬金術でメシが作れるなら、別に焦って稼ぐ必要もないだろ」
「あはは、それはチリンチリン言えばいいのか悩むけど。やんごとなき事情があってチリリン、フゴッフゴッ。いずれ話すとは思うけどチリンリンリーーン、ボェェ〜〜」
「ええと、鈴をしまえ。ノイズがうるせぇ」
紆余曲折ありつつも、オレ達はようやくエイレーネの街を目指し、歩き出した。
職なし、伝手なし、所持金なし。ついでに帰る家もなし。それでも晴れやかな青空の下、力強く歩んでいった。
この道は外の世界に通じている。そこには、どれだけの猛者が待ち受けているか。そう思うだけで、足が軽くなっていく。
(どんなヤツでもかかってこい。聖槍が壊れるまで相手してやる!)
まだ見ぬ世界に心を弾ませては、強くエリスグルを握りしめた――。
〜序章 完〜