明くる朝。アイーシャは妙にゆっくり過ごしていた。教会の鐘が9時を告げた頃にのろのろと起きあがり、眠気まなこを向けてきた。
「おはようライル。早起きだねぇ」
アイーシャは、手桶の水をすくって顔の眠気を洗い流した。それから濡れた布をローブの中に潜らせて、身体を拭いた。
「今日はお前が遅いんだよ」
「そりゃ失礼、お腹へったでしょ」
アイーシャが作り置きのミートパイを出してくれた。これが最後のようで、また作らなきゃとブツブツ言う。
(こうして誰かと朝飯を食うのも、お終いだな)
胸に小さな痛みが刺す。それでも別れを告げるべきだ。なまじオレという存在がいるせいで、こいつは冒険者に片足突っ込んだ生活をおくっている。ヒョロっちい体つきでロクに戦えない、背後で震えるだけのやつが。
ここが決断のタイミングだ、という気がしている。
(アイーシャは冒険から足を洗って、政務官見習いとして食っていけば良い。才能あるようだし、そのうち領主の目にも留まるだろ)
そしてオレはオレの人生を生きる。強いと聞けば片っ端から殴りに行き、危険地帯に率先して赴く、そんな生き方だ。
だからここでお別れ。さよならだ。そう思いはしても、なぜか口から出てこない。キッカケを探っている間に、アイーシャが口を開いた。
「今日はお仕事がないからお店に行こ、素材屋にさ〜〜」
付き合う義理はないが、どうせ乗りかけの馬車。切り出すのは買い物の後にしようと、先延ばしにした。
食い終わり、馬小屋から出てからも、不思議と口数が減っていた。屋根でさえずる鳥の方がずっと饒舌だ。
「錬金術には調合液とか素材が必要なんだ。タダじゃねぇからさ〜〜」
訪れたのは、宿屋からほど近い素材屋だ。
広々とした店内には棚が綺麗に並び、用途不明な物体で埋め尽くされていた。小瓶に分けられた液体など分かりやすい方で、黒焦げた枝、熊をかたどった木彫りなど何に使うのか見当もつかなかった。
「鉄を溶かせる薬は……なさそうだな」
都合の良い薬は見当たらない。だが錬金アイテムの相場は分かった。素材はさておき、完成品のほとんどが高額だった。500や600なんて安い方で、だいたいは桁が1つ上だ。
「すげぇな。傷薬も、金属板も、死ぬほど高ぇ……」
ここでは1冊の本ですら高額だ。一級錬金マニュアルなど、5千ディナ超え。思わず漏れでた声も、鳥を絞め殺したような響きをしていた。
「おまたせライル。あとはお会計だけだから〜〜」
アイーシャが抱え持つのは、調合液の5本セットで30ディナと良心的。
「ところで錬金術って儲かるんだな」
何気なく発した言葉にアイーシャが急に慌てた。手元の瓶を落としそうになる。
「お前も錬金術師なら、スキマ仕事なんてやってねぇでコレで稼げばいいだろ。値札を見たか? 10日分の稼ぎが小瓶1つで手に入るぞ」
「あ、うん。そうだね〜〜」
「そうだね、じゃなくて。どうしてやらないんだ?」
言葉を濁すアイーシャは、そそくさとカウンターに歩み寄り、商品を置いた。あとは会計するだけだ。しかし思いもよらず、ささやかな事件が起きた。
「あなた、もしかしてアイーシャ?」
店番の女が怪訝な顔を見せた。まるで『臭う』とでも言いたげに、口元をローブで隠した。
「あ、はい。そうですが。どっかで会った事ありますっけ?」
その言葉に店員の目が鋭くつり上がった。
「錬金学校の同期よ! もっとも、私みたいな凡人なんて、アンタの目に映らなかったでしょうよ。成績優秀者の常連さんには」
「あ、ごめんなさい……。あの頃は必死に勉強してて、あんま交流とかしてなかったから」
「それにしても何なのその格好は? 噂で聞いたわよ、冒険者の真似事やってるらしいわね? しかも全然だめ、使い物にならないって」
店員は批判するだけあって、自分の身なりは整っていた。金色の長い髪に、彫りの美しい木の髪留め。青を基調としたローブにシワはなく、手足も清潔で、爪までも輝くようだった。
「いやぁ、頑張ってはいるけどね〜〜」
アイーシャは隠すように、両手を膝頭に据えた。その指先が裾を握りしめて震える。店員にとって死角の位置だった。
「人生何があるかわかんないね。平凡な私はちゃんと卒業して、こうやってまともな仕事にありついてる。優秀だの秀才だって褒めちぎられたアンタは、最後の最後で退学扱い。今や低賃金労働者だもん」
「頑張ってるうちに、皆も認めてくれるよ……たぶん」
「どうだか。仮免資格のアンタなんて、人生を棒に振ったようなもんでしょ。お仲間も汚らしい槍遣いって、悪い冗談? とってもお似合いだけどさ〜〜」
オレは反射的に拳を突き出した。それは店員の顔をかすめ、長ったらしく伸ばした金髪が拳圧で激しくなびいた。
驚愕した女の顔が、緩やかに歪んでいく。
「な、何すんのよいきなり! 衛兵を呼ぶわよ!」
「勘違いすんな、蚊が飛んでた。刺される前に潰してやったぞ」
手のひらの中を見せたところ、店員も顔をしかめるしかなかった。
「それより会計はまだか。オレたちはお喋りしに来たわけじゃねぇが」
「ふん……。30ディナよ」
アイーシャは、黙りこくったままで銅貨3枚を並べた。そして店を出るなり、大通りから逃れた。
足の向くまま、裏路地をトボトボ歩いていく。その間アイーシャは、ずっと小さな背中を丸めては、うつむいていた。
(これ、さよならって言える空気か?)
オレが言葉を探っていると、アイーシャの足が止まる。そして意を決したように、強い視線を投げかけてきた。
「あのね、ライル。伝えたいことがあるんだけど」
「なんだよ急に」
「アタシね、実は錬金術師じゃないんだ。まだ見習いなの」
路地裏の日陰がアイーシャの顔を暗く染める。通りに吹き込んだ風も、少しだけ冷えていると思った。
アイーシャの口は、しばらく重たかった。裏路地の階段で並んで腰掛けたのだが、なかなか次の言葉が飛び出さない。1ブロック先の往来から聞こえる賑やかさが、一層の静けさを漂わせた。
やがてアイーシャがポツリという。「イルタール公国って知ってる?」と。オレはもちろん「知らん」と答えた。
「このマギノリアから凄く遠い、船に乗って行くような場所なんだけどさ。そこで母さんが死んだらしいの」
アイーシャはローブの襟首を広げては、紐を引きずり出した。そこには、飾り石とともに毛髪が束になって吊るしてあった。青みがかって艷やか。遺髪なんだろうと思う。
青髪に寄り添うようにして、真っ赤な色味の毛束も同じようにぶら下がっている。さすがに同一人物の体毛ではないだろうが、誰のものか、見当もつかない。
「母さんは冒険者でさ、それでいて錬金術師だったの。世界中をあちこち回ってさ。珍しい玩具とか、土産話とか、色々持ち帰ってくれたんだけど。ある日、ぷつりと音信が途絶えたの。手紙も全然届かなくなって」
「それは、命を落としたから?」
「そうらしいの。イルタールのとあるダンジョンで。今から10年前、まだ私が5歳になったくらいの時だよ。母さんの仲間が家にやって来て、そう教えてくれたの。覚えてるよ。雷と、雨が激しく降る夜だった」
アイーシャは1歳年下だったのか、と思うが、触れずに耳を傾けた。
「でもね、アタシもだけど、父さんは信じてなかった。あんなに頭が良くて、強かった母さんが死ぬはず無い。絶対に、今もどこかで生きてるって」
「でも、仲間がそう言ったんだろ?」
「きっと何かの間違いだよ。だからすぐにでもイルタールへ行きたかった。でも父さんがダメだって。アタシが立派な大人になるまでは、辛抱するって言ってた」
「その状態で10年か……」
「父さんは冒険者じゃなくて、木こりだからね。アタシを連れて長旅なんて無理だと思ったみたい。アイーシャが立派な大人になるまで、責任持って育てるって、言ってくれたんだ」
辛く苦しい、なんて言葉では到底足りない。心情を思えば、一刻も早く飛び出したかっただろう。自らの欲求を抑えて子を育てるとは、良き父親だと思う。どっかのゴミカスとは大違いだ。
だが単なる美談で終わらない事は、アイーシャの瞳が雄弁に語る。
「アタシは14歳になった日にお願いしたの。錬金術師になりたいって。そしたら、快くエイレーネに送り出してくれたんだけど、学費がね」
「高いのか?」
「うん。父さんは教えてくれなかったけど、知る機会があって。入学金だけでゼロが4つも。月々の学費も結構高くてね」
「マジかよ……。何回ダンジョンをクリアすれば払えるんだ。いや、そもそも親父さんは木こりか」
「だからね、入学してからのアタシは必死に勉強したよ。母さんのお手伝いをしてたから、知ってることも多かったけど、朝から晩まで延々と頑張ってたの。早く1人前になりたかったから。そして、母さんを探しに行きたかったから! でもね……」
アイーシャの両手がローブの裾を掴み、シワを深くした。声も次第に震えだす。
「今から一ヶ月くらい前に、突然、アルケイル村で伝染病が猛威を振るったの。父さんもその病気に……」
「それは、まさか?」
「父さんまで帰らぬ人に……。アタシはすぐに駆けつけたよ。ありったけのお金でポーションとか、滋養に良いものを買い集めてから。特効薬を作りたい気持ちはあったけど、誰も錬成表(プラン)を知らなくって。だから有り物の薬をもって、アルケイルに向かったんだけど、間に合わなかったんだ」
遺髪に触れながら青は母のもの、赤は父のものと教えてくれた。
「そんな理由でアタシはね、最終試験に出られなかった。仮免止まりなのは、そういう理由なんだ」
「なんだよそれ。肉親が危篤だったのに、帰ることも許されないのか?」
「学校にあらかじめ相談してたら、再テストも受けられたらしいけど、その時は気が動転してて」
「融通がきかねぇんだな。世知辛い」
「追試は出来ないから、試験を受けるにはもう1回入学からやり直しだってさ。何度も相談したけど、規則だからの一点張りだったよ」
「学費ってのは、諸々でいくらだ?」
「総額でだいたい7千ディナかな。あと事務手数料がいくらか」
「7千ーーッ!??」
オレは叫び声だけでなく、体ごとひっくり返ってしまった。すると日向ぼっこする猫が驚いて逃げて、屋根のカラスも一斉に飛び立った。
「そういうこと。だから仮免止まりだし、正式な錬金術師じゃないから、お店で売れないし働けないの」
「そんな経緯があったのか」
「だからね、アタシはひとりぼっち。錬金術師の資格も、仕事もなし。あれだけ父さんが必死に育ててくれたのに、立派な大人にはなれなかったよ……」
アイーシャの横顔が桃色の髪で隠される。その瞳は何を映しているのか。
慰めてやる事は出来た。しかしそれは、何か違う気がする。優しい言葉をかけてやったとしても、卒業資格が手に入る訳ではない。
「もしかして、アイーシャが冒険者にこだわるのは、母親を探すためか?」桃髪が小さく頷く。
「うん。この眼で見るまでは信じられないからね。父さんの分もあるし。他人任せにはできないよ」
「ようやく理解した。だからか」
「なんのこと?」
「お前ってクソ弱いくせに、冒険者を続けたいっていうし。無謀という名の度胸があるようで、やたらビビるし。もうメチャクチャだろ。その理由があったなら納得だ」
「あはは、辛辣ぅ。その通りだけどさ」
アイーシャの顔が真正面を向いた。視線の先は路地裏から見える大通り。ひしめく家屋と塀で切り取られた光景は、行き交う人が現れては消えと、酷くせせこましいものに思えた。
「今はとにかく旅費を貯めたくってさ。イルタールまでの船代もそうだし、馬車代も要るかな。母さんが潜るようなダンジョンだから、装備も万全にしなきゃだし」
アイーシャの瞳が細くなる。そして、うつむいては、声までか細くなった。
「でもさ、ライルを巻き込むわけにはいかないよね。お金が必要なのはアタシだけだもん。アナタには関係ないこと。だからさ――」
顔がゆっくりとこちらを向いた。桃色の髪が頬と戯れる。
何かを告げようとしている。それはきっと、オレが言えなかった言葉。そこまでを理解して、セリフをさえぎった。
「アタシとはここで――」
「いや。関係ないって事もないぞ」
「えっ……?」
アイーシャの潤んだ瞳。期待と不安が入り混じっていた。
「なんだかんだ言って、オレも金が必要だ。月末まで進展がなけりゃ、フィンに利息金を払わなくちゃならん。毎月1千ディナっつう大金をな」
「それじゃあ。でも……」
「付き合ってやるよ、お前の守銭奴地獄に。なるべく早くイルタールに行きたいだろ?」
「ありがとう、そう言ってくれるて凄く嬉しいよ。だって槍遣いは護り手なんでしょだったらアタシみたいなか弱くて美しい女の子なんてまさにうってつけだもんね嬉しいなぁこれからもよろしくね!」
「お、おう……?」
唐突な早口。しかしアイーシャの攻勢はまだ続く。勢いよく立ち上がったかと思うと、やたら清々しい顔で言った。
「よぉし、やる気出てきた! 政務所行こうか、お仕事もらいに!」
颯爽と立ち去り、そして大通りの手前で振り向いては急かす。「早く!」
オレは選択肢を誤ったかもしれない。例えば、怪しげな魔族とでも契約したかのような。まだフィンを相手にした方がマシかもしれない。
(女ってのはわからん。複雑怪奇ってやつか……)
結局は流されるままに政務所へやって来た。有能なアイーシャとは違い、オレはやる気がほぼ皆無。
そのために別の仕事を与えられて、書庫へとやって来たのだ。膨大とも言える書籍を、名前順に並べ替えるというものだ。
「本棚にズラリとまぁ……。世の中には本がたくさんあるもんだ」
どこかの誰かみたいにエロ本が隠されてる――事はなかった。純粋に実用的なものだけがある。
「まぁ、最低限はやってやるか。目標のためにな」
少しだけアイーシャが羨ましい。あいつは目的がハッキリしている。当面は船代が目標になるだろう。
そこへいくオレは、五里霧中の気分だ。槍を壊したいが、壊れる気配なし。借金を返すアテも、十分に稼げる手段もない。
「目標が明確な分だけ幸せだよな。オレはもう、分からんことだらけで……うん?」
その時、棚からあぶれていた本に目が止まった。装丁の厚い作りで「大陸史」と書いてあった。
「そういやフィンのやつ、村について口走ってたな……」
何となく気になり、本を手に取った。マギノリア公国のエイレーネ領。大陸の中西部にロックランス地方。目次を頼りにページをめくる。
そこには見出しに、槍の神器エリスグルを操る聖戦士が落ち延びた地、と書かれていた。
「槍の聖戦士……オレのご先祖様? ロックランスの住民は槍の信奉者たちだって!?」
想像を遥かに上回る文面に、思わず唾を飲み込んだ。知らない、こんな世界は風の噂ですら聞いたことがない。
「お前、昔は崇拝されてたのか? 嘘だろ……」
背中から降ろしたエリスグルは、壁にたてかけておいた。窓ガラスから差し込む日差しに、柄の宝石が青く煌めいた。静かに、何かを語ることもなく。
今はとにかく大陸史だ。1文字でも多くを読み取ろうとして、目を皿のように開いた。そこに記されていたのは、全く予想だにしなかった歴史がつづれていた。
そもそも、なぜオレは聖槍を押し付けられたのか。親父は、この不遇極まる槍技術を教え込んだのか。その理由の一端が、ここには記されていた。