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第3話 witness

高層マンションのベランダに出た女は缶ビールを片手に目の前に広がる夜景を眺め

る。先ほどまで恋人との逢瀬を重ねていたが、男は左手に指輪を嵌めて部屋を出て

行った。女は口に銜えていた煙草を指で挟んでビールを飲む。

高層であるこの場所もまだムアっとした空気が流れている。人工天気のせいで予定

は立てやすいものの、胸糞悪い空気がいつまでも滞留している。

小さく溜息をついてベランダの柵にもたれて隣の部屋のベランダを見た。灯りがつ

いていないから留守なのだろうが、二つの光りが丁度視界に入った。

女は目が合ったと認識した。隣は留守なのに確かに何かそこにいる。

女は昨日見たホラー映画を思い出していた。恐怖の怪鳥、そんなタイトルだったろ

うか?大きな化け物の鳥が民家に押し入っては人を喰う話だ。

カチカチと歯の鳴る音がした。二つの光りから目が逸らせずにじっと見ている。

次第に視界が歪み始めて、その二つの光りがすうっと消えてまた現れた。

誰かいる。あれは瞬きだ。女の持っていた缶ビールがベランダのコンクリートにド

シャッと音を立てて落ちた。ドクドク流れる炭酸が女の赤いつま先を濡らしている

小さな息を吐いて胸を大きく上下する。視線の先の隣のベランダからゆっくりと長

い爪が現れて、暗闇に紛れるように頭の形が黒く見えた。

女はその場にしりもちをついた。足はガクガクと笑っている。だらしなく開いた口

から涎と小さな息遣いが響いていた。




黒い化け物を見た。恐怖で狂ったように電話口の女が叫んでいる。

緊急ダイアルのオペレーターは受話器を放すと落ち着いた声で話した。

『今は大丈夫ですか?』

『ええ!ええ!大丈夫。もういない。飛んでいった。ねえ、なんなのアレ!私おか

しくなっちゃったの?』

声が震えているせいで聞き取り辛いがモニターには正しく女の言葉が表示されてい

る。

『混乱しているだけですよ。もう少ししたらレスキューが到着します。お怪我はあ

りませんか?』

『ええ、大丈夫。ねえ、アレ本当に何?』

女は少し落ち着いたのかどこか自分が狂っているのではないか?そんなトーンだっ

た。



真夜中、コンビニから出てきたサラリーマンは疲れた顔をして歩き出す。残業が続

いていたせいで草臥れていた。独身の良い年だ。結婚を考えるが相手がいない。

ふらふらした足取りで交差点を抜けると住宅街へと踏み込んだ。まっすぐな道に外

灯がポツポツある。しんと静まり返っており、家々の灯りは消されている。

ゆっくりと歩きながら、ふと視線を上げると外灯の奥、暗がりに何かが見えた。

無数の丸いものに外灯の落とす光が反射している。

『なんだ?』

男は歩きながら目を凝らす。カチ、カチカチ、コンクリートの上を細い何かが叩く

音がした。規則正しい音でカチ、カチ響いている。

じっと目を凝らしていた男は何か嫌な感じがして足を止めた。カチカチという音は

コンクリートに無数に増えている。聞き覚えのあるハイヒールかと思ったがあれよ

りも細い。一歩後ずさりして目の前のものから目を逸らそうとした。

暗闇の中から細い節のある足が複数本カチカチと音を立てて現れる。その奥にある

丸い球体が複眼であることに気付いて男は声にならない悲鳴を上げた。縺れる足で

バタバタ来た道走り出す。コンビニで買った弁当すら忘れたように放り出していた



この夜は両手で数えられないほどのクレームが緊急ダイアルに入った。多くは何か

化け物を見たというものであるが、全て異なっている。

電話の主たちは皆口々に何かを見たと言うが、冷静になる頃には、自分自身が狂っ

ているのではないか?と振り返る。

何故そうなってしまうのかはデータを見れば一目瞭然だった。

彼らは一人でそれを目撃している。けれど何かされたわけではない。ただ目が合っ

た、ただ恐ろしかった、ただ殺されるかと思った、それだけ。

緊急ダイアルでデータを整理しているコグレはこの黒い化け物に関して纏めるとデ

ータをポリスへと転送した。このデータはポリスで確認され、その後に軍へと挙げ

られる。

コグレの隣にいたイシカワは唇を尖らせる。

『今日はおかしなものが多かったですね。』

『黒い怪物のやつだろ?なんだろうな・・・数件ならともかく結構来てるとなると。

コグレはモニターのパネルを操作する。

『見て、うちの管轄だけだ。他ではないみたい。』

『え~、集団で・・・何か変な薬とか流行ってるんでしょうか?』

イシカワが眉をひそめるとコグレは首を横に振る。

『いやいや、このご時勢に薬とかは。規制もかかってるし国のほうで健康管理はさ

れてるだろ?となると・・・精神の異常とか?』

『うーん、それはそれで怖いですね。』

『確かにな。』

『あ、それはそうとコグレさん、もう上がりですか?良かったら飯行きません?』

『お、いいね。』

二人は意気投合すると席を立った。モニターの向こう、ダイアルルームではスタッ

フがまた一人黒い化け物の話を聞いていた。モニターのカウント数は一つカチリと

増えると、一つ一つ数字をあげていった。




夜明け前、空が遠くのほうは鈍色に輝いている。ポツポツと人工衛星の光が瞬いて

は消えて、朝が来るのを告げていた。

古い電波塔の一番上に黒い小さな鳥が止まっている。ビー玉のような瞳は空を捉え

て瞬きを繰り返していた。

電波塔はもう使われていない。錆び付いて赤茶けている。黒い小さな鳥は枯れ枝の

ような足をチョンチョンと動かして移動すると人口太陽が上がってくるのを見る。

美しい眺めにビー玉の瞳が水に濡れたように艶めいた。

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