夕刻、小学校のチャイムが鳴っている。校庭はがらんと静まり返り子供たちの姿は
ない。
用務員の男は一度見回りを終えると用務員室に戻り腰を下ろした。
この学校は至って普通で穏やかだ。なんの問題もない。用務員室奥にあるキッチン
で湯を沸かすとお茶を入れた。これから夜間から朝までが男の時間である。その後
交代の職員が来るが小学校に泥棒が入るということはない。
湯のみを持ちモニターの前に座る。時間つぶしの動画が流れ始めると男はごろりと
横になった。
狼のような声を聞いたのは夢の中だったのか。男はハッと目を覚ました、時計は丑
三つ時を指している。顔を両手でこすって体を起こすとモニターの電源を落とした
。靴を履いて用務員室を出る。廊下に面しているドアから灯りが零れてそれ以外は
真っ暗だった。
男は懐中電灯を手にゆっくりと歩き出す。この学校は三階まである。三棟がコの字
型に繋がっており、ルート的には奥まで進んだら階段を上がり廊下を進む、そして
突き当たったらまた階段を上がる。上まで登り終えたら今度は同じことを下りでや
る。二重のチェックになるので見落としはない。
小学校といえどセキュリティは万全である。いたるところに監視カメラがあり、実
際は用務員の見回りなど必要とはしていないはずだ。しかし無くならないのはいつ
の間にか入り込んだ子供や不審者のためでもある。
コツコツと靴を鳴らして廊下を進む。今日はやけに空気が気持ちが悪いと男は感じ
ていた。変な夢を見たからだろうか?
懐中電灯を教室のほうへ向けて中を確認する。扉は施錠されているため窓から光を
差し込むと中は無人だ。一つ一つ同じ作業をして廊下を突き当たると階段を上がっ
た。
最上階、廊下に出て先を照らした時、異常に暗い気がした。学校というのは陽が入
るように設計されている。外からの光は差し込んでくるのだ。
懐中電灯を前に出して廊下奥の異常に暗い部分を照らした。しかし黒は黒のままで
なにも映し出さない。
男は目をしばたかせて一歩前に踏み出す。その時風の音のように廊下を高く響く音
が進んできた。男を通り抜けて後ろへと走っていく。
『なんだ?』
犬の遠吠えのような、けれどどこか違うような。
もう一度同じ音が聞こえた。今度は目の前から男に向かって飛んでくる。
鼓膜がビリビリとした気がした。
男は片方の耳を押さえて懐中電灯を前に出す。光は円を描いて広がり、その中央の
闇を照らした。動物の足だ。黒い毛の前足が見える。
『いや・・・まてよ。おかしいぞ。戸締りはしてあるから外からは入れない。』
そう、夕方に男は子供たちが去った校舎を見回りしている。誰も何も存在するはず
がない。
ふと懐中電灯を持つ手が震えていた。口元で歯がカチカチ音を立てている。
何だ?怖いのか?まさか?頭は恐怖を感じていなかった。しかし体は正直だ。
男が一歩後ずさりした時、暗闇の中の黒い獣の手がすっと消えた。
『え?』
男は顔を上げた。何故上げたのかは理解していなかった。目の前にある口を開けた
何かを見て、ああ、喰われる。とそれだけを思った。
夜明け前、緊急ダイアルに男の悲鳴が届いた。恐怖にひきつった声がモニターの前
にいた数人に共有される。昨日から軍のバックアップもありスタッフたちは緊張し
ていた。
『大丈夫ですか?落ち着いてください。』
『助けて!廊下中!廊下中、血が!!』
混乱しているのか激しい息遣いが続いている。
『現在地を確認しました。今そちらに向かっています。できれば安全な場所へ移動
してください。聞こえますか?』
オペレーターの声に電話口の男は何度も頷いているようだった。
『だ、だ・・・だ、だいじょ・・・。』
『・・・?どうしました?』
モニターのスピーカーから、鈍い音と何かがぶつかる音が響いた。耳をすませてい
ると何かが歩く音だ。廊下を歩いているはずなのにやけに静かででもかすかにカツ
ンと聞こえてくる。
オペレーターは黙ったまま両手を挙げた。
何か危険な状況になっている可能性がある。音を立ててはいけない。
モニターの右端のランプが点灯する。レスキューが近くまで来ている。
オペレーターは両手を祈るように組むと額をつけた。
レスキューが学校へ到着した頃、少し空は白んでいた。まだ人々は眠りから覚める
頃だ。レスキューは学校の門を開くと用務員室に入った。中のモニターを確認する
。丁度最上階の端のカメラからいくつか壊れている。
急ぎ現場に向かうがレスキューに同行していた軍服がそれを止めた。
『待て、何かおかしい。』
二階への階段をゆっくり上がっていたがレスキュー達も異変に気付いた。異常な獣
の臭いだ。血と糞尿が混じっている。
全員が防護マスクをすると二階の廊下を覗き見た。
何もいる気配はない。ないが強い刺激臭が防護マスクを超えてやってきた。
『くさい・・・。』
周りを確認しながら階段を上がる。階段の踊り場が見えると大きな姿見の前に何か
が立っている。レスキューたちがそれが人であると認識するには少し時間がかかっ
た。
まるで科学実験室に置かれている人体模型のように見えたからだ。
それは鏡にもたれていた。ほんの少し呼吸があり生きているのがわかったが、触れ
ることができないため、レスキューの一人が急いでレスキュー車へ戻って行った。
『大丈夫ですか?』
小さな呼吸を繰り返すその人に聞こえる声で囁く。
ぎょろりとした目玉がレスキューを見る。その意味が何を示すのかはわからない。
ふと軍服が鏡の端に何かが映るのに気付いてピストルを構えると振り返った。
階段の一番上、大きな黒い猿のようなものが手に何かを持っている。ヒラヒラと動
かしているそれは人間の皮膚だ。おそらくここにいる人の皮膚。
大きな黒い猿は両手でそれを持つと弄ぶ。そしてくるりと踵を返すと行ってしまっ
た。
軍服は自分がピストルを構えているのに撃つ事も出来ず、目の前で起こっている出
来事に真っ白になっていた。
あんなもの見たことない。存在するのか?今まで戦場では人を殺してきた。なのに
恐怖で震えている。
隣にいたレスキュー隊長は同じくテーザー銃を構えていたが、口をあんぐりと開け
ていた。そこからだらしなく舌がべろりとたれている。
『おい!』
軍服が彼に触れるとその場に崩れ落ちた。