ビジネス街の古い建物は廃ビルだ。入り口は鎖で施錠されているが裏口のドアの鍵は壊れていた。電気は通っておらず中は真っ暗だ。裏口付近には幾つかの汚れた靴が落ちている。暗い廊下を進むと水音が響いている。用務員室と書かれた部屋から聞こえている。用務員室には汚れた服が詰まれて酷い臭いがしていた。
水音が止まり、タオルで体を拭きながら青年がふらりと現れた。細身の体は筋肉質で濡れた髪は癖なのかクシャクシャしていた。
青年は鏡の前に立ち自分の顔を眺める。その顔は少し歪んでいた。それぞれのパーツは美しいのに微妙に歪んでいる。彼は舌打ちすると壁にかけてあったシャツを着た。少し汚れたジーンズを履き、クシャクシャの髪を両手で撫で付ける。
袋に入っていたパーカーを取り出すと袖を通した。
『タイちゃん。』
廊下の奥で女の声がした。青年は用務員室を出るとそちらのほうへ向かう。
『起きたのか。もう平気なのか?』
目を閉じたままの女はにこりと微笑み、両手で宙を触っている。彼はその手を取ると女の額にキスをした。
『うん、平気よ。タイちゃん、体冷たいね、』
『ああ、シャワーが水だから。夏場でも冷たいからお前には向かないよ。』
『そっか。』
青年タイガは女の顔を見て優しく笑う。けれど彼女には伝わる気配はない。
『ユハナ、お前を家まで送っていく。こんな所にいちゃいけない。もしお前に怪我でもさせたら俺はどうしたらいいかわからない。』
ユハナは照れくさそうに笑った。
『うん、でも・・・ここはタイちゃんがいるから平気。それに・・・。』
片手を首筋に這わせてユハナは胸元で両手を握った。
『ここは・・・タイちゃんとの特別な場所だから。』
タイガはユハナを抱き寄せる。柔らかい髪に触れて何度も口づけ、指を絡ませた。
『ごめんな、俺、金ないからこんなとこで。ちゃんとした綺麗な場所でって・・・。』
タイガの口をユハナの指が止めた。
『いいんだよ。どこだって。タイちゃんが好きだよ。』
ユハナはタイガにとって天使だった。目に入れても痛くないそんな存在だ。
タイガは戸籍を持たない。母親は彼を出産すると育てはしたが出生届けを出さなかった。彼がそれを知ったのは学校に通う年になってからだ。母親は彼に真実を告げて、それでも何もしようとはしなかった。タイガが十六になる頃、母親は事故で死んだ。それからは彼は独りで生きてきた。生きるためには金を稼ぐ必要があるが簡単ではない。タイガは窃盗を繰り返し、この廃ビルにたどり着いた。
ある日、タイガの目の前にユハナが現れた。信号待ちで白杖をついている彼女に傍にいた男が耳打ちした。信号は赤だった。音声認識のないその場所で彼女は男に礼を言うと白杖をついて歩き出す。スポーツカーがスピードを緩められず迫っていた。それに気付いたタイガがユハナを助けたのがきっかけだ。
助けられたユハナはタイガの腕の中で優しげに笑う。
『あ、申し訳ありません。助けていただいたんでしょうか?』
そう言った彼女にタイガが怒鳴ったのは間違いない。
ユハナを家に送り届けてタイガは手を離した。ドアを開いてから彼女が中に入るのを見守っていた。見えてはいないのにユハナが手を振っている。
タイガはそれが嬉しくて噛み締めながら歩き出す。
この世の中に、こんなに優しい愛があっていいんだろうか?自分みたいな愚かな人間に愛を注いでくれる存在がいていいんだろうか?
昨日の晩、初めて彼女を抱いた。あの盗品だらけの部屋の中で、清い彼女を。
暗闇の中で彼女を愛する行為はタイガにとっても特別だった。
今まで感じたことのない感情が生まれていた。愛しさだ。母といても殴られる日々だった、同じ女でもユハナは違う。愛を与えてくれる。ただ違うのは彼女はタイガの顔を知らないということ。それだけだ。
ユハナはタイガの顔を知っても愛してくれるだろうか?タイガにとってそれが一番怖いことだ。
いつもどおりまた廃ビルに戻る。味気ない日々の始まり。
ふと部屋の中に誰かの気配を感じてタイガは体を潜めると中を覗きこんだ。
『タイガ?戻ったのか?』
聞き覚えのある声にタイガは微笑むと顔を出した。
煙草の火が燃えている。外から少し光りが差し込むとスーツの男が見えた。
『カツラギさん!』
カツラギは微笑むと持っていた袋を持ち上げる。
『差し入れを持ってきたぞ、またどうせ食ってないんだろ?』
『そんなことないけど・・・ありがとう、助かります。』
カツラギはポリスだ。タイガがまだ十六の時、窃盗で捕まってポリスに殴られていたのを拾ってくれた。ポリス同士でも仲は良くないのだとその時知った。
『こっちまで来るの、珍しいね。』
受け取った袋の中にはまだ暖かい食事が入っている。ちゃんとしたテイクアウトのものだ。コンビニのものでもいいはずなのに、いつもこうして暖かいものを届けてくれる。
『そうだな・・・最近物騒だからな。タイガ、お前は大丈夫か?』
『うん。何とか・・・仕事は難しいから・・・その。』
湯気の上がるハンバーガーを包みから出して頬張るとタイガは俯いた。それに気付きカツラギがタイガの頭をくしゃくしゃと撫でる。
『分かってる。俺はポリスだから肯定はしてやれないけどな・・・分かってるよ。』
『・・・ごめんね、カツラギさん。』
本心からの言葉だ。窃盗をしている自分をポリスのカツラギは捕まえずにいる。こうして面倒まで見てくれて。それでも仕事をしようにもIDがないことには難しい。彼もそれを理解しているからこそ何も出来ずにいるのだ。
『・・・ああ、タイガ。ここに女がいたのか?』
『え?』
カツラギは真後ろに手を伸ばすとハンカチを拾い上げた。ユハナのものだ。
『これ、女のものだろ?もしかして、恋人が出来たか?』
ハンカチを受け取って膝の上に置くとタイガは頷いた。
『うん。大事な人なんだ。俺みたいな奴にも優しい人なんだ。』
『そうか。良かったな。』
くしゃくしゃとまた頭を撫でてカツラギが笑う。きっと父親がいるとしたらこんな風なんだろう。
『今度紹介する。カツラギさん、会ってくれる?ユハナっていうんだ。』
『ああ・・・。楽しみにしてる。ほら、食えよ。冷めちまう。』
タイガは頷くと手の中のハンバーガーに齧りついた。
この夜は珍しく緊急ダイアルは鳴らなかった。穏やかな夜にそれぞれが胸をなでおろし優しい時間を過ごす。
カツラギはタイガと別れてポリスへ向かっていた。月が丸く輝いている。
星が消えてしまうほどに眩しく夜の街に影を落としている。
口に銜えた煙草が灰を落とす。カツラギの呼吸に合わせて燃え上がりまた緩んだ。