数日後。
その日は、まるで世界の始まりを祝福するかのように、一点の曇りもない、どこまでも突き抜けるような紺碧の青空が王都の上に広がっていた。
王都の中央、いや、もはやベルノ王国の象徴とも言える巨大な円形闘技場の上空には、それ自体が高度な魔法技術の結晶であり、一つの芸術品とさえ称されるべき、いくつもの巨大な“魔導結晶”が、まるで天空の星座のように魔法の力で静かに浮かんでいる。
それらは、これからこの闘技場内で繰り広げられるであろう数々の激闘のハイライトや、出場する選手たちの勇姿を、様々な角度からリアルタイムで鮮明に映し出し、闘技場の外にいる人々にもその熱狂を伝えていた。
まるで、未来の出来事までも見通すかのような、魔法仕掛けの巨大な鏡のようだ。
地軸を揺るがし、天を衝くかのような、勇壮極まりないファンファーレが高らかに轟く。
それに呼応するように、闘技場を埋め尽くした何万という観客席から、まるで堰を切った激流のごとく、割れんばかりの歓声が一斉に沸き上がった。
熱狂の渦が、古の巨人を思わせる巨大な競技場全体を揺るがし、包み込み、そこにいる全ての者の魂を震わせている。
「さあ皆さま!! 長らく、長らくお待たせいたしました! 王都が一年で最も熱く燃え上がり、興奮に染まるこの季節がついにやって参りました!
栄光と誇りを賭けた魔法の祭典、魔法闘技――ただいまより、いよいよ華々しく開幕でございます!!」
闘技場の一角に特設された、まるで鳥の巣のような実況席から、この国で知らぬ者はいないほど有名な司会者の、魔力によって増幅された張りのある声が、闘技場の隅々にまで、まるで神の啓示のように響き渡る。
「出場する栄えある選手たちへ、そしてこれから紡がれるであろう新たなる伝説へ、熱き魂のこもった声援を送る準備は、果たしてできているかーーーッ!!?」
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!!」
観客席から、もはやそれは声援というよりも、一つの巨大な生き物が咆哮しているかのような、腹の底から絞り出す地鳴りのような声が、天に向かって力強く湧き上がった。
ビリビリと、足元から空気そのものが震えているのが肌で感じられるほどだ。
私はそのころ、これから戦いに赴く選手たちが慌ただしく準備をする受付ブースの、さらにその奥まった一角に設けられた、貴賓用の小さな控室にいた。外界の喧騒が嘘のように、そこだけは奇妙なほどに静かな空間だった。
「エレナ君……そろそろ、時間だ。心の準備は良いかな」
落ち着いた、それでいてどこか全てを見通しているかのような、深く優しい声。
声をかけてくれたのは、私たちが日頃から何かと世話になり、そして深く信頼を寄せている、王都大教会の司祭様だった。
この方だけは、私たちエレナとエレンが、この世でも稀有な“二人でひとつ”の存在であることを知り、そして静かに見守ってくれている、数少ない貴重な理解者の一人だ。
「……はい、わかりました。今から、エレンと交代しますね。司祭様、いつもご迷惑をおかけして申し訳ありません」
私は静かに一礼すると、司祭様に優しく促されるまま、受付所のさらに奥まった、他の選手たちの目も届かない、人気のない一室へと向かった。そこが、私たちが意識を交換するための、ささやかな聖域だった。
***
重厚な木の扉を開けて部屋に入り、静かにそれを閉める。外界の爆発するような喧騒が嘘のように遠のき、まるで時が止まったかのような、あるいは深海に一人取り残されたかのような、絶対的な静寂が訪れた。
私はゆっくりと目を閉じる。意識を、自分の内側の、さらに奥深くへと静かに、丁寧に沈めていく。
(エレン、準備は大丈夫? 緊張は……してないと思うけど、一応聞いておくね)
(ああ、問題ない。むしろ、こうして人間相手に、しかも衆人環視の中で真剣勝負をするなど、一体いつ以来だろうな。……ふっ、少しだけだが、確かにこの腕が鳴るというものだ)
彼の声は、いつになく楽しげで、どこか高揚しているように感じられた。その声には、戦いを前にした武人の純粋な喜びが満ちている。
(だからって、くれぐれも、くれっぐれも、やりすぎないでよ……! 相手は魔物じゃないんだからね!)
(“くれぐれも”、善処はしよう。だが、手加減を期待するようなら、それはお門違いというものだぞ、エレナ)
その、どこか楽しげで、それでいて絶対的な自信に満ちた言葉を最後に、エレナの意識は優しい微睡みの中へと静かに沈んでいき、身体の主導権は完全に“私”へと移った。
そして――こうして、
“魔法を使わぬ王国最強の剣士”エレンの、ベルノ王国の歴史においても前代未聞となるであろう戦いが、
いま、始まろうとしていた。
ふわりと、束ねていた白銀の髪が解かれ、月光を練り込んだかのように肩先で揺れる。閉じていた瞼がゆっくりと開かれると、そこには夜の闇よりも深い、けれどどこか妖しい光を湛えた深紅の瞳が静かに輝いていた。
***
――そこは、ベルノ王国が世界に誇る中央闘技場。古の英雄たちがその技を競い合ったという伝説の地。
天空にまで届きそうなほどの壮大な高壁に四方を囲まれたその巨大な舞台は、かつて古代の闘技建築を参考に、当代最高の魔導技術と建築技術を結集して建造されたとされる、壮麗なる“円形闘技城”だ。
外周を取り囲む壁は、聖都から切り出されたという純白の磨き石を基調にした、息を呑むほどに荘厳な造り。
しかし、ただ古いだけではない。その純白の壁面の至る所には、古代ルーン文字を模した複雑怪奇な魔導細工によって、幾何学的な紋様が緻密に刻まれている。それは装飾であると同時に、闘技場全体を保護し、魔力を安定させるための高度な術式でもある。
そして、夜になると、その紋様一つ一つが淡く、幻想的な光を灯し、闘技場全体をまるで星空のように照らし出すのだという。
私はまだ見たことはないが、想像するだけで壮観だろう。
そして――今、私がこれからその身を投じることになる“試合の舞台”。
そこは、希少な魔導石を惜しげもなく練り込み、魔法的な衝撃や物理的な攻撃にも耐えうるように特別に強化された床石が敷き詰められた、闘技場の中心、地面に直接設置された広大な円形の戦闘フィールド。
赤茶色に焼かれた硬質なレンガが、寸分の隙間もなくびっしりと敷き詰められており、その光景はまるで、古代の剣士たちが血と誇りを賭けて舞った“戦いの祭壇”そのもののようだった。
何万人もの観客がひしめく観客席からは、その神聖なる舞台全体を、まるで神が天上から見下ろすかのように設計されており、選手の一挙手一投足、どんな小さな剣の動き、どんな微かな呼吸の乱れも――その全てが、何万という熱狂的な視線に容赦なく晒されることになる。
剣が硬いレンガの床を擦る、シャリ、という乾いた音さえ、観客たちの高鳴る心臓の鼓動と共鳴し、この広大な空間全体に不気味なほどクリアに響き渡るだろう。
まさに、“見られる戦い”。そして、“魅せる戦い”が求められる場所。
それが、このベルノ王国中央闘技場だ。
「ふふ……どうやら、さっそく私の出番らしいな…初戦から注目されているというのは、悪くない気分だ」
手にした組み合わせ表に記された、私の初戦の相手は、炎系統の魔法を得意とする騎士見習いの少年・グレン。肩書きこそ“見習い”とはなっているが、この魔法闘技の本戦に出場してくる時点で、その実力は折り紙付きと見て間違いない。
いかなる相手であろうと、油断はしない。それが私の信条だ。
私は闘技場の選手入場ゲートから、ゆっくりと、しかし確かな足取りで、太陽の光が燦々と降り注ぐ闘技場の中央へと歩み出た。その瞬間、割れんばかりの歓声と、好奇の視線が一斉に私に突き刺さるのを感じた。
***
「さぁさぁ! これから始まる熱き戦いを前に、改めてこの魔法闘技の基本ルールを説明するぞぉぉ!! 初めて観戦する方も、毎年来てくださっている常連の方も、よーっく聞いてくれよな!!」
先ほどの実況の声が、再び闘技場全体を震わせるように高らかに響き渡る。
その声には、聞く者全てを興奮させる不思議な魔力が込められているかのようだ。
「まず! 選手には全員、魔法研究所が開発した特製の“透明化する祝福の鎧”を装備してもらう! この鎧は一定以上のダメージを受けると破壊され、その時点で勝負あり! もちろん、闘技場の円形舞台から場外に落ちたり、弾き飛ばされたりした場合も、即・敗北となるぞ!」
「だが心配ご無用! たとえ相手の強力な魔法や剣技でぶった斬られたとしても大丈夫だ! この鎧には高位の治癒の祝福が付与されており、致命傷になるような大怪我は最小限に抑えられる! 安心していけーっ!」
「さらに! 当然ながら、気絶させられた場合も即負けだ! 以上ッ! ルールは至ってシンプル! あとは選手たちの純粋な実力と魂のぶつかり合いを、思う存分楽しんでくれェェ!!」
その説明が終わると同時に、観客席が再び大きく揺れる。万雷の拍手、期待を込めた歓声、力強い足踏み、そして爆ぜるような興奮の叫び。
まるで大地そのものが、これから始まる戦いに向けて喜び、沸き立っているかのようだった。
以前の私であれば、このような見世物じみた興行には、おそらく何の興味も示さなかっただろう。
だが、今の私は違う。エレナと共に生き、様々な経験を積んだ今の私は、純粋に思う。
“未知なる強者と、この剣を心ゆくまで交えることができる”――ただそれだけで、私の心の奥底で眠っていた何かが疼き、胸が高鳴るのを感じる。
***
闘技場の反対側のゲートから、一人の青年が姿を現した。私の初戦の相手だ。彼はまっすぐこちらを見据え、堂々とした足取りで近づいてくる。
天に向かって逆立つ黄金色の髪が、降り注ぐ太陽の光を反射して、まるで本物の炎のようにきらきらと輝いている。その短く切り揃えられた前髪の下から覗く、燃えるようなオレンジがかった瞳が、獲物を見つけた肉食獣のようにギラリと鋭く光った。
身に纏っているのは、白を基調としながらも、情熱的な赤いラインがアクセントとして随所に走る、王道の騎士服。
しかし、よく見れば、肩や脇腹の部分には動きやすさを重視したスリットが大胆に入っており、実戦を想定した機能的な設計であることが窺える。その出で立ちは、まさに彼自身が持つ“燃えるような情熱”と“揺るぎない正義感”を、そのまま形にして纏ったかのようだった。
「アンタが、噂の“S級剣士”エレン……ってやつか? まさか、これほどの使い手とはな」彼の声は若々しく、自信に満ち溢れている。
「ああ。エレンだ。よろしく頼む、グレン」
私は静かに応じる。
「へえ……女だったとはな。まあ、ギルドの資料には性別不明とあったが……けど、相手が女だろうと、S級だろうと、俺は一切容赦はしねぇぞ?」
それは一見、軽口のようにも聞こえるが、その目に宿るのは侮りや油断の色ではない。むしろ、私の力量を慎重に“見極め”ようとする、真剣な探求の視線だ。
「ふふ。おうとも。遠慮はいらない。全力で来い。」
「……へぇ。どうやら、俺の炎の噂は、あんまり耳に入ってねぇみたいだな? 後悔するなよ?」
彼が腰に佩いた、鍔広の騎士剣の柄に手をかけた、その瞬間。
私もまた、音もなく静かに、腰の愛剣の冷たい柄を握り、鞘から滑るように刃を引き抜いた。磨き上げられた白銀の刀身が、太陽光を浴びてまばゆい光を放つ。
互いの視線が、まるで交差する刃のように鋭く交差し、火花が散るかのような緊張感が、二人の間に張り詰める。
──ゴォォォーーン!!──
その時、王国の平和を告げるはずの荘厳な鐘の音が、闘技場に高らかに鳴り響いた。
それが、“開戦”の合図。
私は迷いなく、一瞬にして地を蹴った。
躊躇も、探り合いも不要。
瞬きする間に間合いを詰め、狙うはがら空きの胴へ…
雷光の如く鋭く一突き――!
「っ……うぉっ!? なんだその速さ……!」
咄嗟に、彼は驚愕の声を上げながらも、反射的に剣を盾にするようにして私の突きを防いだ。
だが、その防御は完全ではない。
私の剣先は、彼の剣の側面を滑り、浅くではあるが脇腹の鎧を捉える。
火花が激しく弾け、甲高い金属音が澄み切った青空に鋭く響き渡る。
ガキィィン!!
「ちっ……やるじゃねぇか……! 少しは楽しめそうだぜ! なら、こっちの番だ!!」
グレンの体勢がわずかに崩れたのを見逃さず、私は即座に追撃を仕掛けようとしたが、彼はそれを許さない。
体勢を立て直しながら、その右手の剣に、まるで彼の怒りが具現化したかのように、瞬時に紅蓮の炎が灯る。
燃え盛る魔力が渦を巻きながら刃に収束し、剣全体が灼熱の炎の塊と化す。彼はそれを、力任せに、しかし正確に私めがけて振り下ろす――!
私はその一撃を冷静に見極め、最小限の動きで一歩、左に跳んで回避し、着地とほぼ同時に、流れるような動きで剣を横薙ぎに振り抜いた。
「ぐっ……! 速い、だけじゃねえのかよ……!」
私の放った鋭い斬撃が、彼の騎士服の肩口、祝福の鎧がわずかに薄い部分を正確に斬り裂く。パキン、と硬質な破壊音が響く。
その衝撃で、彼の体勢が大きく崩れたその瞬間
――好機、逸すべからず。
私は再び踏み込んで、一切の迷いなく、がら空きになった彼の胴体へと、体重を乗せた鋭い蹴りを叩き込む。
ドガッ! という鈍い衝撃音。
「……ッ! がはっ……!」
短い悲鳴と共に、まるでボールのように身体が弾かれ、グレンは為す術もなく闘技場の硬い床に尻もちをつく。
そのまま地面に両手をつき、信じられないものを見たかのように、驚愕と混乱に染まった表情で、呆然とこちらを見上げていた。
「ま、まじかよ……。これが……S級の、剣……?体術まで使うとは…」
ほんの数合、刃を交えた一瞬で、攻撃の主導権を完全に奪われ、赤子のようにあしらわれたという衝撃。その計り知れない力量差に対する動揺が、彼の全身から隠しようもなくにじみ出ていた。
そして――その瞬間を待っていたかのように。
「エレン!! エレン!! エレン!! エレン!!」
観客席から、先ほどまでの比ではない、まさに地鳴りのような大歓声が、エレンの名を呼ぶチャントとなって湧き上がる。
純粋な驚きと、興奮と、そして圧倒的な強さに対する惜しみない賞賛の声が、巨大な波のように闘技場全体に押し寄せてきた。
私はその喧騒を背に受けながら、静かに、だが確かな手応えを感じながら、再び剣を中段に構え直す。
(……まだだ。まだ、私の満足には程遠い。)
真に燃え上がるのは、熱狂するこの会場の雰囲気ではない。
この、剣を通じて相手の魂と触れ合うかのような、ヒリつくような“剣の感覚”――それこそが、この私を、今もなお熱くさせる唯一のものなのだ。