──アイン、おまえはもう必要ない。
おれはいつのまにか真っ白な空間に立ちつくしていた。声が聞こえる。おれを否定する声。何度も何度も聞いた声。この世の誰より慕った声。
「先生」
気づけば、あの人が目の前に立っていた。何よりも頼った大きな体。褐色の肌と黄金の髪。赤い両目。
「どうしておれのこと置いてったんだよ」
尋ねても返事はない。ただ、あの日に聞いた最後の言葉を繰り返すだけ。
いつもの夢だ。6年前から毎晩見続ける慣れた夢。目が覚めるまで否定され続ける。
「……え?」
だが、いつもと違う点があった。
後ろから誰かに抱きしめられている。小さな体だ。だが、見上げるほどに大きく、温かい。
「誰だ?」
尋ねても返事はない。どうしてだ。返事をしてくれ。あなたの声を聴きたい。こんな優しい温もりを持つ人の顔を見たい。
身をよじる。その動きは夢を打ち破り──。
「はッ」
目を覚ますと、おれは砂漠のど真ん中、昼の神のすぐ近くにいた。
「そうだ、おれ……」
イラガルムの群れに負けた。そこまでは覚えている。
「で、そのあと……」
そうだ、天使だ。灰の山となったガルムを見て思い出す。とんでもない奇跡を操る天使に助けられたんだった。
あの天使はどこにいる? あの、この世の何よりもきれいな──。
「ん?」
そこで違和感に気が付いた。夢の中の温もりがまだある。
慌てて首をひねり後ろを見る。
怖いぐらいきれいな顔がそこにあった。
「よかった、起き──」
「おああ!」
現実でも抱きしめられていた! あわてて腕の中から逃れる。戦っていた時よりよほど心臓が速い。
「……傷つくな。せっかく助けてやったのにさ」
白い肌と髪。真っ赤な瞳。背中の翼。間違いない、あの天使だ。
少女は口をとがらせてこっちを睨んでいる。確かに、気が動転したとはいえ助けられておいて失礼なことをした。だが、こっちにも事情がある。
「わ、悪い。でもおれは──」
「わかってる。人に触れられるのが怖いんだろう? すまなかった。でも、どうしてもこうしたかったんだよ」
おれが言葉にする前に少女はそう言った。どうしてそれを知っているのか。それを尋ねる前に、さらなる言葉が与えられた。
「きみの勇気に報いたかったんだよ。自分の命を犠牲にしてでもミュリデを守ろうとした、その偉大なる勇気にね」
微笑みとねぎらい。無性に胸が熱くなる。だが、わからない。見た目は天使だが、この少女はいったい何者なのか。
「あんた、いったい……」
「ふむ。わたしが何者なのか、と?」
考え込むように顎に手を当てる。うんうん唸っている姿を見て気づいたが、真っ白なワンピースを着ている。見たことのない材質だ。
「うん、その質問についてだけど」
「おお」
「わたしにもわからない」
「ええ」
思わずコケそうになった。自分が何者かわからないとは。
「でも、きみのことは知っているよ。きみはアインだ。ミュリデを守る戦士だ」
少女は自信満々といった様子でそう言った。あってるだろう? とウインクしてくる。ちょっとウザい。
「そうだけど……なんで知ってんだ? あんたと話したことなんて」
「無いとも。けれど、わたしはずっと見ていたんだ。君たちミュリデの民を」
「見てた? どっから」
「あそこから」
そう言うと、少女は昼の神のほうを指さした。羽が生えていて、ありえない強度の奇跡を使い、昼の神の上から下界を見ている。まさか、ほんとうに天使なのか。
天使。昼の神の使いとされる超常の存在。
神話では何度か登場するが、歴史の記録が始まってから現れたことはないという。だから、おとぎ話の存在だと思っていたが。
「あんた、マジに天使なのか」
「だから、わからないといってるだろう? 気づいたらあそこにいて、きみを見ていたんだ。そしたらきみが死にかけていたから」
少女が言うにはそういうことらしかった。よくわからないが、とにかく納得するしかない。
そういえば、傷が塞がっている。血の流れも止まっていた。奇跡によるものらしい。
「あんたが治してくれたのか?」
「そうとも。ぜひ感謝してくれ」
「……するつもりだったよ」
先に言われるとやる気がなくなるのはなぜだろう。
「まあ、ありがとう。助かったよ。まさか死なずに済むとは思わなかった」
立ち上がり、少女に軽く手を振ってから村へ向けて歩き出す。バッカスに無事を伝えなければならない。
「それにしても下がこんなに暑いとは。上から見ているだけじゃわからなかったよ」
「もうすぐ夏だしな。よけいだろ」
「口の中がじゃりじゃりする。砂って面倒だね」
「砂漠に住むならしかたない」
「実際にミュリデに入るのは初めてだ。楽しみだなあ」
「……うん」
少女を振り向く。どうかしたかい? という感じできょとんとしている。
「ついてくる流れ?」
「もちろん」
「そっか……」
改めて少女の姿を見る。きれいだ。というよりも、きれいすぎる。こんなに整った顔は見たことがない。何より翼だ。亜人というのがいるが、翼が生えたのは夜の世界にしかいない。
そんな、明らかにただものじゃない少女を連れて行ったらどうなるだろう。絶対に放っておいてはくれない。大勢に囲まれるのは嫌だ。
「昼の神のところに帰るとか」
「見かけだけで飛べないんだ。降りることはできるんだけどさ。さ、早く行こう」
少女は当たり前といった風に急かしてくる。このままでは押し切られてしまう。
「わかった。手前までは案内するから、別々に……」
「ダメ。助けてやっただろ?」
「うぐ」
それを言われると辛い。だが、おれの気持ちもわかってほしい。
「わかってるよ。人が怖いんだろう? 関心を持たれるのがイヤなんだ」
また見透かされた。ひょっとすると、天使じゃなく悪魔かもしれない。
「きみは育ての親に捨てられ、それから人と深い関係を持たなくなった」
「……マジに見てたんだな、おれのこと」
「うん」
それを知ったうえでこの態度。とんでもなく肝が太い。
「だったら、おれのことは放っておいてくれないか?」
「イヤだ。わたしはきみにとても興味がある」
だから、と少女は言葉をつなぐ。
「いっしょに暮らそう。わたしがきみを変えて見せる」
「……余計な世話だって断ったら?」
「きみは断らない。借りを返すまでは言うことを聞いてくれる。そういう人間だ」
この天使に逆らうことはできないらしい。本物かどうかは知らないが、さすが神の使いだ。
正直に言うとすごく嫌だ。もう先生に置いて行かれた時のような思いはしたくない。近づかなければ離れることもないというのは、おれなりの自己防衛だ。
だが、この不思議な少女なら。もし、天使がほんとうにいるなら。
「わかったよ。気が済むまで居候すればいい」
「やった!」
少女は無邪気に飛び跳ねて喜ぶ。その様子を見て、ふと気になったことがあった。
「名前は?」
「ん?」
「名前だよ。あんたの名前」
「ああ」
少女は飛び跳ねるのをやめ、真面目くさった表情になった。
「ないんだ。だから、いつかきみがわたしを受け入れてくれたとき──」
きみが、つけてくれ。少女はおれにそう言った。