伊藤博文は、報告書に目を落としながら小さく息を吐いた。陸軍の精緻な南下作戦と、海軍による両湾からの挟み撃ち――それはまるで歴史に残る戦略図のように完璧に遂行された。彼の胸中に湧いた安堵感は、冷たく研ぎ澄まされた戦略家としての自負を再確認させるものだった。
銀の産出地として名高いメキシコは、世界の供給量の半分を握る。アラスカで採れる黄金に比べれば輝きは鈍いが、経済の潤滑油としては申し分ない。大日本帝国の国庫が豊かに満たされる様子が、彼の頭の中に鮮やかに描かれていた。これでまた一歩、帝国の世界征服という野望に近づいたのだ。
伊藤は背筋を伸ばし、書斎の中央に据えられた巨大な世界地図に視線を移した。地図に描かれた大陸や海洋は、彼の目には無限の可能性を秘めた戦場に見えた。指先でゆっくりと北米大陸をなぞりながら、次なる一手を考え込む。彼が掌握しているのは北米の東部とメキシコ、さらに東南アジアのインドネシアだ。だが、それだけではまだ足りない。
他国の情勢を把握しなければならない。伊藤の瞳に鋭い光が宿る。大日本帝国と同盟を結んでいるイギリスは、インドを植民地化し、オーストラリア、アフリカの東半分までも勢力下に置いている。かつての「日の沈まぬ国」は、依然として強大な影響力を誇示していた。
一方、ロシア帝国、オーストリア、ドイツはフランスという共通の脅威に対抗するため、固い同盟を結んでいる。そのフランスは、アフリカ大陸の西半分を手中に収め、海の向こうでその権力を振りかざしている。南米大陸では、スペインとポルトガルが旧世界の栄光を懸けて土地を分け合っていた。
伊藤は地図を見つめながら唸った。フランス領は遠すぎる。補給線が延びれば、それは即ち命取りになる。南米を狙おうにも、スペインとポルトガルが連携すれば、大日本帝国といえども苦戦は免れない。冷静に考えれば、今は無理に領土を広げるべきではない。
伊藤は細い指をこめかみに当て、思考を巡らせる。ならば、次の戦争に向けて力を蓄える方が得策だ。征服したばかりのアメリカ西部――その地を発展させれば、経済の基盤はさらに強固になるだろう。荒野に鉄道を敷き、人と物資を北米全土に流通させる。大陸横断鉄道を最大限に活用すれば、帝国の物流は飛躍的に効率化される。
だが、それだけでは足りない。伊藤の目に鋭い光が宿った。もっと具体的な策が必要だ。彼の視線はメキシコ湾に面したフロリダへと移った。あの場所に軍港を建設すればどうだろう。海の玄関口として機能し、経済活動と軍事力の双方を底上げできる。労働者を雇用し、資金が地域に循環する。経済は潤い、軍備拡大の礎も築ける。まさに一石二鳥だ。
伊藤の唇がわずかに緩んだ。「これだ……」彼は小さく呟き、決意を固める。計画は完璧だ。後は実行あるのみ――。
その時、重厚な書斎の扉が突然、荒々しい音とともに開いた。激しい衝撃に、扉は壁に叩きつけられる。伊藤の思考が中断され、冷たい空気が部屋に流れ込む。側近の顔は青ざめ、額には汗が浮かんでいた。肩で息をしながら、彼は叫ぶように報告した。
「首相、大変なことになりました! アメリカが反乱を起こしました!」
伊藤の表情が一瞬で硬直した。瞳が鋭く細められ、深い皺が眉間に刻まれる。書斎の中に、重苦しい沈黙が落ちた。冷静に見えた彼の胸中には、嵐のような怒りと焦りが渦巻き始めていた。