大久保利通は、静かな官邸の廊下を歩きながら、頭の中で数々の計算を巡らせていた。パナマ海峡――その名が持つ重みは、ただの地理的な要衝にとどまらない。これまで大洋を隔てて遠かったヨーロッパが、今や手を伸ばせば届くような距離に感じられる。新たな海路が切り拓かれたことによって、国際的な交易の流れが劇的に変わるのだ。
廊下の窓から差し込む西日が、大久保の冷静な瞳に黄金色の光を反射させる。彼は軍人ではない。戦場の鉄火には縁遠い。しかし、彼の手の中にある経済という武器は、時として大砲や剣よりも鋭く、世界を揺るがす力を持つ。パナマ海峡の確保がもたらす恩恵――それは単なる航路の短縮だけではない。産業を発展させ、国力を増強し、民衆の生活を潤わせる絶好の機会なのだ。
「うん? 待てよ……」廊下を進む足がふと止まった。彼の眉がわずかに動く。
「パナマ海峡の使い道は、それだけだろうか?」
頭の中で経済の歯車が回転し、ひとつのアイデアが閃いた。そうだ、もっと効果的な使い道があるではないか! 大久保の目に鋭い光が宿る。通行料だ。他国がパナマ海峡を通るたびに料金を課す――それだけで莫大な収益が期待できる。
「早速、伊藤博文に提案しよう」
決意と共に、大久保は足早に伊藤首相の執務室へ向かった。
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「大久保、お前の方から来るということは、何か閃いたという認識でいいな?」
執務室に入るや否や、伊藤博文の鋭い目が大久保を射抜いた。その視線には、期待と緊張が混ざり合っている。執務室の空気は、重厚な木の家具と共に、国の命運を決する者たちの責任感で満ちていた。
「もちろんですとも」
大久保は一呼吸置いてから、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「この前の戦争で我々はパナマ海峡を手に入れました。これはヨーロッパとの距離が近づいた以外にも使い道があります。それは《パナマ海峡を使う他国から通行料をとる》ことです」
自信に満ちた声音が、部屋に小さな振動を与えた。壁にかけられた地図が、夕暮れの光を受けて静かに輝いている。
「ちょっと待った! それではイギリスとの関係がこじれてしまう」
伊藤博文の声には、焦りと慎重さが滲んでいた。眉間に深い皺が刻まれ、彼の頭の中では瞬時に国際情勢がシミュレーションされているのだろう。
「伊藤首相、もちろんイギリスが使うのはタダです。同盟国ですからね」
大久保は穏やかな笑みを浮かべつつ、言葉に鋭い切っ先を忍ばせた。
「でも、我々にもメリットがあります。イギリスにこう提案すればよいのです。『パナマ海峡を自由に使っていいから、大日本帝国はスエズ運河を自由に使いたい』と」
伊藤は一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐにその表情は納得の色に変わった。視線は机上の地図に落ち、指先がゆっくりとパナマ海峡からスエズ運河へと滑る。大西洋と地中海を結ぶスエズ運河――その航路の重要性は、パナマ海峡にも匹敵する。
「そうか……これならウィンウィンだな」
伊藤の唇に薄い笑みが浮かんだ。その笑みには、策士の確信と興奮が入り混じっている。
大久保の心に喜びが広がった。自分の提案が、国の未来を左右する一手になる――そう確信した瞬間だった。
「大久保、さすがだ。抜け目がないな」
伊藤の言葉が、温かな称賛となって胸に響いた。いつもは叱責ばかりの首相からの褒め言葉に、大久保の心は軽やかな高揚感で満たされた。
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首相執務室を出ると、大久保は弾むような足取りで廊下を進んだ。心の中で、未来へのビジョンが鮮やかに描かれている。パナマ海峡が、国を繁栄へと導く黄金の道となる――そんな夢想が現実味を帯びていた。
しかし、その喜びに水を差すかのように、廊下の向こうから一人の側近が駆けてきた。顔色は蒼白で、手に握られた新聞が小刻みに揺れている。息を切らしながら、側近は新聞を差し出した。
「大久保様、大変です! これを……」
大久保は訝しげに新聞を受け取り、目を走らせた。そこには、大見出しが彼の視界に飛び込んできた。
「イギリスとフランス、アフリカで激突」