福井は凍てつくユーコン川沿いの雪道を、深く刻まれた足跡を辿りながら進んでいた。氷点下の風が容赦なく頬を叩き、息をするたびに肺の中まで冷たさが染み込んでくる。彼のコートは白い霜に覆われ、ゴーグルの縁には凍りついた結晶がびっしりとこびりついていた。視界は常に白と灰色のモノトーンで、同じような風景が果てしなく続く。
「先生、やっぱり無理なんですよ。あてもなく探すなんて」
浅田の声が、冷たい空気を裂くように響いた。疲労と苛立ちが滲み出たその言葉は、単なる愚痴ではなく、現実に対する無力感の表れだった。彼の吐いた息が白い霧となって漂い、すぐに風に流されて消えていく。浅田の目は福井をじっと見据えていたが、その瞳には諦めの色が濃く浮かんでいた。
その言葉は福井の胸に深く突き刺さった。鋭い氷の刃のように、真実であるがゆえに痛みを伴った。探すべき冷凍マンモスの痕跡は、数週間にわたる探索でも一向に現れず、ただ冷たく広がる大地が彼らの行く手を阻むばかりだった。
「福井教授、数週間探して見つからないんです。諦めましょうよ」
柿沼が震える声で言った。彼の体は寒さに耐えかねてガタガタと震え、唇は紫色に変色していた。通訳という役割を買って出たのは、自分のキャリアにとって大きな成果が期待できるからだった。それだけに、この言葉には諦めというより、切実な現実感が込められていた。
冷気が柿沼の吐く息を白く染め、まるで失われつつある希望の残滓のように漂う。柿沼は手袋の上から自分の手をこすり合わせ、わずかな温もりを求めていた。彼の表情には、福井に対する理解と、しかしそれでも限界に近づく自分への苛立ちが入り混じっていた。
しかし、福井の心にはまだ諦めるという選択肢は存在しなかった。彼の中に燃える探究心の炎は、冷たく過酷なアラスカの大地でも消え去ることはなかった。凍りついた川、永久凍土、そしてその下に眠るかもしれない歴史の断片。福井にとって、それはただの化石ではない。過去と現在を繋ぐ架け橋であり、未知を解き明かすための鍵だった。
「分かった、こうしよう」
福井は低く、しかし力強い声で言った。その言葉は寒風にかき消されることなく、浅田と柿沼の耳にしっかりと届いた。
「あと二週間、この近辺を探索する。それでダメなら金の採掘場に戻ろう。採掘の中で見つかるかもしれない」
彼の言葉には妥協の響きがありながらも、探求をやめないという強い意志が込められていた。浅田はため息をつき、視線を遠くに流した。白い大地はどこまでも広がり、遠くに見える山並みも雪に覆われている。その景色は美しくも残酷で、彼らの努力を嘲笑うかのように冷たい。
柿沼はその提案にかすかに頷いた。彼の心の中には疲労と葛藤が渦巻いていたが、それでも福井の信念に引きずられるように、もう少しだけ前に進もうと決意した。
冷たい風が吹き抜ける中、三人は再び足を踏み出した。彼らの足跡は雪に刻まれ、すぐに風に消されていく。それでも彼らは歩みを止めなかった。遠く、見えない地層の中に眠るであろう冷凍マンモスへの期待を胸に、それぞれの思いを抱えて、無言のままユーコン川沿いを進んでいった。
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福井の心は、凍てつく大地と同じように重く沈んでいた。ユーコン川沿いの探索を始めてから二週間が経とうとしていた。時折、氷が軋む音や遠くで響く風の唸り声だけが、彼の耳に届いていた。周囲は静まり返り、冷たい絶望がゆっくりと彼の胸に広がっていく。
彼の靴が雪を踏みしめるたびに、鈍い音が虚空に消えていく。白銀の大地はどこまでも広がり、探し求める冷凍マンモスの気配など、まるで幻のように感じられた。これほどまでに足掻いたにもかかわらず、成果はゼロ。学者としての誇りと情熱が、少しずつ崩れていくのを感じていた。
「教授、私たちは十分頑張りましたよ。海軍将軍も怒りはしないでしょう。採掘員を割いて、これだけの時間を費やしたんです。結果が出なくても仕方ありません」
柿沼の声は穏やかで、慰めの響きがあった。その言葉には理解と同情がにじみ出ている。しかし、その優しさは福井の心をかえって締め付けた。彼は柿沼の気遣いに感謝しつつも、敗北感と無力感が拭えなかった。
「そうかもしれないが……」
福井の声はかすれ、言葉の先が見つからないまま途切れた。彼は深く息を吐き、俯いたまま雪道を歩き続けた。重いまぶたを閉じれば、勝海舟の顔が浮かんでくる。あの鋭い眼差しと確かな信念を持った男に、冷凍マンモスの発見を期待されている。その期待に応えられない悔しさが、胸に鋭く突き刺さる。
ふと、対岸に目をやると、毛皮のコートが風にたなびいているのが見えた。薄汚れたそのコートは、誰かが不要となり、捨て去ったものに違いない。乾いた風が布地を揺らしているが、コートは空に舞うことなく、そこに張り付いていた。それはまるで、自分の中に残った最後の希望が、かろうじて風に耐えているかのようだった。
「もしかしたら……」
福井は小さく呟いた。その声には、ほんのわずかな可能性にすがる切実さが滲んでいた。冷たく凍えた心の片隅に、微かな光が差し込む。彼は決意を固めたかのように顔を上げ、冷たい空気を一気に吸い込んだ。
対岸に渡ろう。まだ諦めるわけにはいかない。
ユーコン川には薄い氷が張り、所々で流れが見えている。川を渡るには危険を伴うが、福井の足は躊躇うことなく氷の上へと踏み出した。氷の表面がひび割れる音が耳元で弾ける。しかし福井はその音を無視して、慎重に歩を進めた。彼の瞳には、まだ諦めきれない炎が灯っていた。
「教授、待ってください! 危ないですよ!」
柿沼の声が背後から響いたが、福井は振り返らなかった。ただ前を向き、次の一歩に全てを賭けていた。冷たい風が吹き抜け、コートの裾がはためく。凍りつく大地の果てに、まだ見ぬ冷凍マンモスが待っている——そう信じて、彼は前に進んでいった。
**
「まさか、こんなことになるとは……」
福井の呟きは、寒風にさらされてすぐに消えていった。彼の目の前には、長年追い求めてきた夢が現実のものとして横たわっていた。冷凍マンモスの巨大な頭部が、氷と泥の中からその威容を覗かせている。氷河時代の面影を色濃く残すその姿に、福井の胸は高鳴った。しかし、完全に掘り出すには途方もない時間と労力が必要だと一目で分かった。
浅田が唇を噛み、寒さに肩をすくめながら苦笑する。「先生、大手柄ですよ、これは。でも、掘り出すには骨が折れそうだな……」
浅田の言葉は冷静で、現実的だった。金鉱を掘ってきた彼には、この作業がどれほどの時間を要するか、直感的に分かっていた。それでも、福井は目を離せなかった。目の前のマンモスは、何万年もの時を超えて現れた貴重な遺産。掘り起こし、世界にその存在を示すことが、学者としての使命であると確信していた。
「どうするんですか、先生?」浅田の声には、少しばかりの不安と焦りが滲んでいた。
福井は一瞬目を閉じ、深く息を吸い込んだ。冷たく乾いた空気が肺に突き刺さる。それでも、この場を離れるという選択肢は、彼の中にはなかった。
「……。よし、二人は採掘場に戻ってくれ。私がここでマンモスを見張る」
その言葉は、静かながらも決意に満ちていた。浅田は目を見開き、信じられないという表情を浮かべた。
「先生、何を言ってるんですか! こんな極寒の地に一人で残るなんて、自殺行為です!」
浅田の声は切迫していた。風が吹き抜ける度に、彼らの体温を奪っていく。ここで一人きりになることが、どれほど危険かは明らかだった。野生動物や吹雪、そして孤独という名の敵。いずれも命を奪うには十分すぎる要因だ。
だが、柿沼は浅田の肩に手を置き、穏やかな目で福井を見つめた。「浅田さん、もう諦めた方がいい。この人は研究者としての意志を曲げることはないんですよ」
数週間を共に過ごす中で、柿沼は福井の頑固さと情熱を知り尽くしていた。どれほど危険であろうとも、学問の探究心が福井を突き動かす。それは、他者には到底理解しがたい、研究者という生き物の業のようなものだった。
浅田は大きなため息をつき、雪を踏みしめた靴の先で地面を蹴った。「分かりましたよ……。でも、約束してください。絶対に無茶はしないでください」
福井はその言葉に静かに頷いた。だが、その眼差しは、すでにマンモスと未来に向けられていた。
「誓うとも。だが、これだけは言わせてくれ。私はマンモスのそばを離れるつもりはない。もし二人が戻ってこなくても、このマンモスと一緒であれば、それでいい……」
その言葉に、浅田は呆れ果てた表情で肩をすくめた。「先生、それが無茶だって言うんですよ……」
福井は二人が立ち去る姿を、冷たい風に吹かれながら見送った。彼らが次第に豆粒のように小さくなり、やがて白い地平線の向こうに消えていく。広大なアラスカの大地に、福井はただ一人、取り残された。しかし、孤独感は不思議と感じなかった。目の前に眠る冷凍マンモスが、何千年もの孤独を経て、彼と共にこの地に存在しているのだから。
風が吹き荒び、福井のコートがはためく。空は灰色に覆われ、遠くで雪嵐の気配が迫りつつあった。それでも福井は、静かにマンモスに手を伸ばし、その冷たく硬い頭部に触れた。
「さあ、一緒に待とうじゃないか……」
彼の言葉は、吹雪の中に溶けて消えた。だが、その瞬間、福井の心に確かな手応えがあった。自然の静寂の中で、過去と現在が交差し、新たな歴史が静かに幕を開ける音が聞こえた気がした。