福井の研究室には、冷たい冬の光が薄く差し込んでいた。壁一面に貼られた地図や古生物の図解、机の上に無造作に積まれた論文や書物が、彼の飽くなき探究心を物語っている。ストーブの熱が届かない隅では、冷気が静かに揺れていた。
「教授、聞いてください。今度は我が国が……」
興奮を抑えきれない様子で、通訳の柿沼の息子が部屋に飛び込んできた。彼の息遣いは荒く、頬は冬の風で紅潮している。だが、福井は落ち着いた様子で、彼の方に視線も向けず、手元の資料に目を走らせたまま答えた。
「アメリカ全土を手中に収めた、そうだろう?」
福井の声は低く、だが確信に満ちていた。その言葉に、柿沼の息子は目を丸くし、驚きの表情を浮かべた。
「あ、さすがにご存知でしたか」
彼は息を整えながら言った。いくら福井が研究熱心とはいえ、国の動向に無頓着なわけではない。それどころか、彼の知識欲と洞察力は、政治や国際情勢にまで及んでいた。それはアラスカで冷凍マンモスを発掘し、国の科学界に大きな一石を投じて以来、ますます加速している。
「じゃあ、これはご存知ですか? 向こうで恐竜の化石が見つかっているって話」
福井は、資料の束を一度パタンと閉じ、ようやく顔を上げた。彼の瞳は興味に輝いていた。
「もちろんだ。時間ができれば、私が自ら発掘チームに加わる予定だ」
そう言う福井の口元には、抑えきれない期待と興奮が滲んでいる。アラスカでの成功以来、彼は多くの学術機関からの依頼や講演に引っ張りだこだった。時間のやりくりが追いつかないのは、うれしい悲鳴でもあった。
しかし、柿沼の息子の顔には、どこか陰りが見える。
「それ、まずいですよ」
彼の言葉に福井は眉をひそめた。歩き回りながら考え事をしていた福井は、足を止めて問い返す。
「何がまずいんだ?」
「それが……どうやら、アメリカ人二人が競うようにして発掘しているらしくて」
福井は一瞬、考え込んだ後、肩をすくめて笑った。
「それは結構なことじゃないか。アメリカは我が国の属国だ。いずれはその成果も我々のものになるだろう」
だが、その言葉に柿沼の息子はさらに不安げな表情を浮かべ、唇を噛んだ。
「教授、それが問題なんです。その二人は、ダイナマイトを使って発掘を進める計画を立てているらしいですよ」
「ダイナマイト……?」
福井の表情が固まった。最初は「効率的だな」と思いかけたが、すぐに恐るべき事実に思い至る。顔がみるみる険しくなった。
「それでは、せっかくの化石が粉々になってしまうじゃないか!」
彼の叫び声は、研究室の壁に反響し、資料棚の本が小刻みに揺れた。福井は机を拳で叩き、深いため息をつく。
「そんなことがあってはならん。待てよ、ダイナマイトの権利は、確か伊藤首相が買い取ったはずだ。アメリカ人が勝手に使えるはずがないだろう」
その言葉に、柿沼の息子は指をパチンと鳴らし、声を落とした。
「それが問題なんです。彼らは違法な手段で、発掘を進めようとしているんですよ。おそらく、化石を闇で売買して、金儲けを企んでいるんです」
福井の怒りが、再び燃え上がった。彼の中に流れる探究心と正義感が、烈火のごとく燃え盛る。恐竜の化石が無残にも砕け、密売される――その考えは、彼の研究者としての矜持を踏みにじるものだった。
「分かった。勝海舟に直談判しよう。あいつなら、必ずしかるべき措置を取ってくれるはずだ」
福井はコートを手に取り、研究室の扉に向かった。歩みは速く、決意に満ちている。
「すまんが、受講生に伝えてくれ。しばらく授業は中止だとな」
生徒は「またか」と呆れながらもドアの向こうに姿を消した。
**
柿沼邸の応接間は、古い木材の温かみと書物の香りに満ちていた。柔らかな和紙の障子を通して、冬の日差しが淡く射し込み、床に繊細な影を落としている。薪ストーブのパチパチという音が、静かな空間に心地よいリズムを刻んでいた。
柿沼は、湯気の立つ茶碗を手に取りながら、苦笑いを浮かべていた。彼の笑みには、驚きよりも諦めにも似た達観が感じられる。
「まあ、息子から話を聞いていましたから、覚悟はしていましたがね」
彼の目尻には、長年の苦労と経験が刻んだ細かな皺が浮かび、言葉以上の感情を物語っている。しかし、その表情にはどこか満足げな誇りも滲んでいた。研究者として名高い福井が、自分に頼みごとをする――それは、柿沼にとって信頼の証であり、友情の深さを示すものだった。
福井は、ストーブの前でコートの襟を正しながら、険しい顔つきをしていたが、その瞳には確固たる決意の光が宿っている。彼の指先は小さく震えていたが、それは寒さのせいではなく、これからの任務に向けた高揚感と焦燥感が交錯した証だった。
「今度はアメリカでしょう? 暑い土地だと聞いています」
柿沼の言葉は、アラスカの極寒を共に耐え抜いた二人の思い出を呼び起こすかのように、どこか皮肉めいていた。「寒さの次は暑さか」と、心の中で呟きながらも、どこか冒険に向かう少年のような好奇心を隠し切れない。
福井は地図を指でなぞりながら、深く息を吐いた。
「ことは急を要する。勝海舟が、役所の人間を手配することになっている。出発は……」
福井が言い終える前に、柿沼は微笑みながら言葉を継いだ。
「明日、でしょう?」
その言葉には、長年の付き合いから来る確信と、運命を共にする覚悟が込められていた。まるで、それが当然の成り行きであるかのように、柿沼の声には迷いがなかった。
福井は目を見開き、一瞬の驚きを見せた後、口元に笑みを浮かべた。
「おお、さすがだな。アラスカを一緒に旅した仲だから、当たり前かもしれないが」
二人の間には、言葉を超えた理解と信頼が流れていた。寒さに凍え、苦難を乗り越えたあの極北の地での経験が、今も二人の絆を固く結びつけている。
柿沼は茶碗を置き、腕を組んで天井を見上げた。ふと、役所の役人たちの顔が脳裏に浮かぶ。真面目で堅苦しい彼らが、また福井の無茶な計画に振り回される様子が、ありありと目に浮かんだ。
「しかし、役所の人間は驚くでしょうね」
彼の言葉に福井は肩をすくめ、皮肉っぽく笑う。二人の笑い声が、静かな邸内に温かく響き渡った。