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新聞記者 藤倉さやの場合①

 藤倉さやは、筆を握りしめ、机上の原稿用紙に次々と文字を書きつけていた。政府がアラスカを購入してからというもの、新聞には民衆の不満と批判の声が溢れている。その嵐を鎮める記事を書くのが、今の彼女に課された使命だ。



 説得力のある言葉を紡ごうと頭を抱え、心の中で自嘲する。――こんな記事、簡単に書けたら苦労しないわよ。



「さや、記事はできたか?」と、上司の前野が苛立たしげに声をかけてきた。



「もう少し時間をください。……アラスカ購入を擁護する記事を簡単に書けたら苦労しないわよ」

最後の小言は小さな声で呟いた。前野には聞こえなかったに違いない。



 広間に置かれた掛け時計が、無情にも時を刻んでいく。締め切りまで、あと小一時間。藤倉は深呼吸をし、改めて原稿に向かい合った。筆先を見つめ、政府を称賛するキャッチコピーをひねり出すことに全神経を集中する。


**


「時間前にできた!」



 手元の懐中時計を確認すると、締め切り五分前だった。安堵の息をつき、原稿を両手で押さえて立ち上がる。



「前野さん、これでどうですか?」



 前野は原稿を受け取り、鋭い目で隅々まで目を走らせた。そして無言で頷き、ようやく許可を出す。その瞬間だった。



バタンッ!



 ドアが勢いよく開き、事務所全体に冷たい風が吹き込む。



「前野、速報だ! アラスカで金鉱と油田が発見された。号外の準備をしろ!」



 息を切らした社長が、それだけ言い残し、慌ただしく去っていく。室内は一瞬静まり返った。藤倉と前野は顔を見合わせ、引き攣った笑みが浮かんだ。冷たい絶望が二人を包み込む。



「……また、書き直しですね」



 藤倉は筆を手に取ると、原稿の束を虚ろな目で見つめ、ため息をついた。


**


 藤倉さやは、慌ただしく筆を走らせながら、ふと頭をよぎった疑問に立ち止まった。――なぜ、こんなにも鮮度抜群の情報が、まるで湧き水のように絶え間なく入ってくるのだろう? 新しい金鉱や油田の発見なんて、新聞が号外を出すまで知り得ないはずの極秘情報ではないか。



 頭の片隅に引っかかった違和感が、重く胸にのしかかる。けれど手は止められない。号外の締め切りは待ってくれない。



「前野さん、どうしてうちはこんなに早くネタが手に入るんですか?」



 前野は眉をひそめ、面倒くさそうに肩をすくめた。低い声でぼそりと答える。



「そりゃあ、うちの社長と首相の側近が大の仲良しだからだよ。それで、政府の情報を独占してるってわけだ。政府にとって都合のいい記事を書いてやれば、他紙に出し抜かれる心配もない。つまり、うちが世論をコントロールしてるってことさ」



 前野の言葉には、どこか皮肉っぽい響きがあった。彼の目には疲労と諦観が滲んでいる。何度も繰り返されるこの慣例に、もう疑問を持つことすらやめてしまったのだろう。



 藤倉は、少しの間黙り込んだ。社長と首相の側近――権力と情報が、目に見えない糸でしっかりと結びついている。新聞というものは、真実を届けるためにあると信じていた頃があった。けれど今は、その紙面が誰かの意図で染め上げられている。



「なるほどね……」



 独り言のように呟き、藤倉は自分の胸に言い聞かせるようにうなずいた。真相を知ってしまえば、それを無視して仕事に戻るのは難しい。けれど、今の彼女にできるのは、与えられた役割を果たすことだけだった。


**


 号外が街中に配られるや否や、人々は新聞を求めて殺到した。配達人が次々と号外を手渡すたび、周囲には驚きや歓喜の声があふれる。誰もが目を輝かせ、手にしたばかりの号外を奪い取るように読み込んでいる。新しい金鉱と油田の発見という吉報は、冷え込んだ空気を一瞬にして沸騰させた。



 広場の一角、そんな喧騒を遠目に見つめながら、藤倉さやは胸の奥に沈殿した不安を振り払うように息を吐いた。風に舞う号外の紙片が、どこか無情に見える。ふと隣に立つ前野に目を向け、藤倉は真剣な眼差しで切り出した。



「前野さん、さっきの話、続きがありますよね?」



 前野はわずかに目を細め、彼女の言葉の真意を探るような視線を向けた。



「調べてみたんですよ。首相の側近について。あの人、徳川慶喜公の側近だったみたいですね。そして――うちの社長も、徳川の血筋を引いているらしいじゃないですか。それも、政府とのつながりが異様に強い理由の一つでしょう?」



 藤倉の言葉は鋭く、彼女の中で点と点が一本の線となってつながった確信が滲んでいた。彼女の瞳には、真実に迫る者特有の光が宿る。前野は一瞬驚いた表情を浮かべたが、やがて深い溜息と共に苦笑した。



「腕を上げたな……。ああ、その通りだ。うちの社長は徳川の末裔だよ。そして、伊藤首相の側近に食い込んでいるのは、かつて慶喜公に仕えていた一族の者だ。あの時代が終わったはずでも、見えない糸で旧時代の亡霊たちが今も暗躍しているってわけだ」



 前野の声には皮肉めいた響きがあった。だが、その目には忌避しようもない現実を受け入れている諦めが見て取れる。



 藤倉の脳裏には、歴史の闇に身を潜めながらも、時代の表舞台を操る影がありありと浮かんだ。伊藤博文の背後で、なおも息づく徳川慶喜の影――それは亡霊ではなく、今も生き続ける権力の象徴だった。時代が変わろうとも、古い血脈とその思惑は、まるで古い根のように地中深くに張り巡らされている。



 ――新聞が世論を操るのではない。権力が新聞を操り、人心を縛り付けるのだ。



 遠くで号外を握りしめ、歓声を上げる民衆の姿が目に映る。その喜びが純粋であればあるほど、胸の奥が苦く締め付けられる。真実を知る者だけが味わう孤独。だが、藤倉はそれでも筆を折ることはしない。どれほど巨大な影が立ちはだかろうとも、真実を追う記者としての矜持だけは失いたくなかった。



「いつか、この真実も表に出してやる……」



 藤倉は小さく呟き、再び広場を見つめた。その目には、深い決意の炎が静かに燃えていた。

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