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新聞記者 藤倉さやの場合②

 藤倉さやは、号外の原稿を手にしながら、どこか重い心を抱えていた。机の上には、インクの瓶と数本のペンが並んでおり、その隣には使用感のあるノートと書類が散乱している。部屋の空気は少しひんやりとしており、夕方の薄明かりが差し込んでいた。窓の外では、街の喧騒も遠く、静かな時間が流れている。そんな中で、藤倉はタイプライターのキーを小気味よく叩く音を響かせていた。



「『本日、我が国は世界を統一しました。これもすべて、政府がアラスカを購入したおかげです』。こんなところかしら」と、藤倉はつぶやきながら、打った文字を見つめる。目の前に広がる原稿の一部を確認し、少し首をかしげる。彼女の手は一字一字慎重にタイプライターのキーを叩きながら、次に書くべき内容を考えていた。文章の流れを感じ取るように、心の中で言葉を紡いでいく。



 前回の号外では、アラスカ購入に関する記事が世間に流れ、金鉱や油田が発見されたことで、アラスカ購入がいかに正しい選択だったかを強調した内容だった。政府の功績を賛美し、国民の期待に応えるための役割を果たしたわけだが、今回は違った。今回は、世界が統一されたという事実を伝える記事だ。その重みをしっかりと伝える責任が、藤倉には感じられた。



 彼女は一度ペンを止め、原稿に目を通す。文字列の一つ一つが、それに相応しい意味を持っていることを実感しながら、慎重に確認を重ねる。世の中の出来事の流れが、まるで藤倉自身を取り巻くように展開していくことに、彼女は少し圧倒されていた。政治的な力学、経済の変動、そして人々の意識の変化。それらすべてがこの一文に凝縮されるのだと考えると、心の中に感じる緊張感が一層強くなる。



「前野さん、なんで世界統一できたんでしょうね」と、思わず口に出してしまう。藤倉は、背後に座る前野の方を見た。前野は、新聞社で共に働く先輩であり、藤倉にとっては頼りになる存在ではあるが、時折その答えに深みを感じられないこともあった。



「そりゃあ、アラスカを購入したからだろ」と前野は肩をすくめながら軽く答える。あまり深く考えていないようなその言葉に、藤倉はちょっとした違和感を覚えた。確かにアラスカの購入が大きなきっかけとなったことは間違いないが、それがすべてだとは思えなかった。



 藤倉は心の中でつぶやく。「アラスカ購入が成功するためには、それまでの政治的背景が重要だったんじゃないかしら」



 もし、徳川慶喜公が朝廷に政権を返し、大日本帝国の経済基盤がしっかりと整備されていなければ、この時期にアラスカを購入することなど到底できなかっただろう。政治的な思慮深さがあってこそ、ここまでの成功を手にすることができたのだと、藤倉は思っていた。



「慶喜公の賢明な判断がなければ、こんなに大きな一歩を踏み出すことはできなかったはずだわ」と心の中でつぶやく。彼女は改めてその考えに確信を持ち、再びタイプライターのキーを叩き始める。



 その時、前野が声を上げる。「それにしても、世界統一で終わらず、南極大陸にも進出するとなると、驚きだな」前野は政府の英断を賛美し、藤倉も一瞬、彼の言葉に耳を傾けるが、彼女の心の中には少し違和感が残る。



 南極進出という話は、確かに壮大で魅力的ではあるが、その裏にあるリスクや冒険の側面もまた無視できない。未知の地に踏み込むことは、常に予測できない困難を伴うものだ。



「もし、間宮が南極に挑戦することになったら……」藤倉は心の中で考え、思わず顔をしかめる。間宮は藤倉の恋人であり、冒険家として知られていた。彼の心は常に未知の世界に引き寄せられており、南極という過酷な地への挑戦に心を躍らせるに違いない。そんな彼が、もしその挑戦を受けることになったら、どんな危険が待ち受けているのか、藤倉には想像もつかなかった。



「もし彼が南極を制覇したなら、その日は『南極大陸記念日』だと記事を書こう」と心の中で決意する。それが成功したとき、その日を祝う意味でも記事を書き、全世界にその偉業を伝えるべきだと思った。



「おい、さや。手が止まってるぞ。もうすぐ締め切りだ、急げ」と、前野が背後から声をかける。藤倉はその言葉にハッとし、再び焦りを感じる。時計を見ると、もう日は完全に沈みかけている。部屋の中は薄暗くなり、タイプライターの音だけが響く静かな夜が広がっていた。



「すみません」と一言謝りながら、彼女は再びタイプライターに向かって手を動かし始める。文字が次々と並び、原稿が形になっていく。夜が深まり、街の喧騒も遠くに感じられる中、藤倉は一心に作業を続けた。

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