山を越えて、俺たちはようやくシェルヴァの谷へとたどり着いた。
高原に開けたその谷は、段々畑のように草と石の段丘が続き、風が斜面をなでるたび、草の海が一斉に波打つ。風の通り道に沿って、木と石を組み合わせた家々が並び、その屋根には風を受けて音を奏でる小さな風笛がくくりつけられていた。
ひとつ鳴ると、それに応えるようにあちこちの風笛が次々に和音を奏で、まるで谷全体がゆるやかな楽曲を奏でているかのようだった。
「この谷、歌ってるみたいだね!」
ルーナがうっとりと呟いた。
荷車を引いていたカメ吉が「親分、休憩しましょうぜぇ」と言ってきた。
灯生たちは荷車を谷の入口に寄せ、軽く荷を整える。
「ここは風鳴りの里って呼ばれてるらしい。」
セリーヌが地元の山羊族の青年に教えられた情報を伝えると、リアが小さく頷いた。
谷には山羊族や鹿族を中心に、小規模な獣人集落が暮らしていた。訪
問者には慣れているらしく、親しみある挨拶で彼らを迎えてくれる。
共有の小屋では果実の甘味と、薬草を乾かした風葉茶が振る舞われ、旅人たちにささやかな安らぎの時間が与えられた。
そんな中、リアは一人、谷の縁へと歩を進めていた。
風が吹き上げてくる断崖の縁。そこに小さな影がいた。
鹿の耳を持つ子どもが、しゃがみこんで花を摘んでいる。
「何してるの?」
思わず声をかけると、子どもがぱっと顔を上げ、無邪気な笑顔を浮かべた。
「お姉ちゃんも花、飛ばす?」
手にしていたのは白い綿毛の花。
それをふっと風に投げると、ふわりと舞い上がり、風の流れに乗って空へと昇っていく。
「風にお願いを乗せるんだよ。そしたら、お母さんのとこに届くの。」
その言葉に、リアの胸がちくりと痛んだ。
記憶の底、まだ黒猫の里にいた幼き日。
母の膝に抱かれながら、同じような綿毛を飛ばして遊んだ記憶がよみがえる。
「ママに会いたい・・・。」
ぽつりとこぼすリアの手を、鹿族の子が握った。
「風が歌ってるよ。きっと、返事してる。」
その言葉に、リアの瞳に滲んだ涙がそっとこぼれ落ちる。
それからしばらく、リアはその子と並んで花を摘み、風に乗せて遊んだ。
言葉は少なかったが、ただそこにいるだけで、心がほどけていくのを感じた。
「名前、聞いてもいいかにゃ?」
「うん。フラルだよ。お姉ちゃんは?」
「リアだよ。フラル、いい名前だにゃ!」
夕暮れ時、俺が迎えにくると、リアはふっと笑った。
「友達ができたかい、リア?」
「うん!フラルって言うにゃ!そのご主人様・・・ここに今夜だけ泊まるのはどうかにゃ?」
「そうだね。もうすぐで夜になるし。フラルって言ったかい?ここの里長のところへ案内してもらえるかな?」
「うん!いいよ!こっちだよ。」
フラルに案内されて、段々畑の間の道を通り抜け、里長が住んでいるという小屋へ辿り着いた。