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9 風の歌と星の夜


段々畑の高台に建つ、木と石を組み合わせた一軒の小屋。


その扉を開けて出迎えてくれたのは、角も耳も持たない、ただの人間のように見える老婆だった。

けれどよく見ると、彼女の瞳は山羊のように横に割れた瞳孔をしていた。

耳も、髪に隠れているがふさふさとした三角の形をしている。


「フラル、こちらの方たちは?」


「このお姉ちゃんはリア!それから・・・。」


「俺は灯生と言います。虎族の里に向かって旅をしているものです。」


「これはご丁寧に。私はこの谷の集落の里長をしている山羊族のマシュナと申す。それで何用ですかな?」


「この集落の傍でいいので、夜が明けるまで泊まらせていただきたいのです。荷車があるので一晩そこで過ごしたいと思いまして。」


「そんなことかい。気になさらず泊まっていくといい。まぁ立ち話もなんだ、入るといいさ。」


「ありがとうございます!お邪魔します。」


里長のマシュナさんは、風と星を司るこの谷の古き守り手だという。

しわ深く刻まれた顔は、歳月の重みを語りながらも、どこか冴えた光を宿していた。


「リアと言ったか。黒猫の娘かい。」


リアを見つめるマシュナの声は低く、しかしあたたかかった。


「この谷は風と星とでできている。風が変われば、空も変わる。お主の心にも、きっとね。」


そう言ってマシュナは微笑み、谷に宿る者としての礼を込めて、灯生たちに一晩の宿を提供してくれた。


「この谷はよく響く風が吹くよ。それに今夜は星がよく見える。」


小屋の中には、薪の香りと乾いた草の匂いが満ちていた。

囲炉裏の上には素焼きの鍋が吊るされ、山菜と豆を煮込んだスープがふつふつと湯気を立てている。

ふつふつと煮える鍋からは、山の夜を包むような香りが立ち上っていた。

食事には穀物を練って蒸した団子も添えられ、どれも素材の味がしっかりと生きていた。


「これ、身体に沁みるにゃぁ。」


リアが思わず漏らすと、マシュナは目尻を下げてうなずいた。


「この谷はね、優しさしかないのさ。そうじゃないと、風に持ってかれちまうからねぇ。」


ルーナやセリーヌ、カメ吉も食事を楽しみながら、それぞれの旅の疲れを癒していく。

アルファスと灯生が明日の旅程について小声で話し合う一方で、リアはそっと立ち上がった。


「フラル、外に行こうかにゃ。」


夕暮れから夜に変わる空。星がぽつ、ぽつと灯りはじめ、夜の風が谷を撫でていた。

段々畑の端に腰を下ろし、フラルと並んで夜空を仰ぐ。


「ねえ、リアお姉ちゃん」


「ん?」


「お母さん、いなくなっちゃったの?」


リアは答えに詰まる。

でも、隣でじっと見つめるフラルの目が、ただ優しく問いかけているだけだと分かって、静かに頷いた。


「虎族の里にいるにゃ。きっと。」


「じゃあね、お願いしようよ。星に。」


フラルは白い綿毛の花を差し出した。

夕方にも一緒に飛ばした、あの小さな願いの種。


「夜の風は、すっごく遠くまで届くんだって。だから、ママにも届くよ。」


リアは綿毛を受け取り、そっと唇を寄せた。心の中で浮かんだのは、幼いころの記憶。

母に抱かれて、安心して眠ったあの腕のぬくもり。


「元気だよって、伝わるといいにゃ。」


ふっと吹いた。

綿毛は風に舞い、ふわり、ふわりと夜空へ昇っていく。


「フラル、ありがとにゃ!」


「ううん。わたし、お姉ちゃんができてうれしい!」


ふたりは寄り添い、言葉少なに星を見上げていた。

谷の風笛がカラカラと鳴り、音のない歌を空に届けていた。

やがてフラルが小さな声で言った。


「この谷、ずっと風が歌ってるの。わたし、ここが大好き!」


リアは頷きながら答えた。


「リアも、少しだけ、好きになったにゃ。」


その夜、灯生は一人、カメ吉の甲羅の上に登って空を見ていた。

風は静かで、空は広かった。


星がまたたく空の下、そっと目を閉じた。

リアが眠りにつくその小屋の中では、フラルの寝息がかすかに聞こえていた。

夜の風がまた、そっと綿毛をさらっていく。

それは、星と心を結ぶ風だった。


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