段々畑の高台に建つ、木と石を組み合わせた一軒の小屋。
その扉を開けて出迎えてくれたのは、角も耳も持たない、ただの人間のように見える老婆だった。
けれどよく見ると、彼女の瞳は山羊のように横に割れた瞳孔をしていた。
耳も、髪に隠れているがふさふさとした三角の形をしている。
「フラル、こちらの方たちは?」
「このお姉ちゃんはリア!それから・・・。」
「俺は灯生と言います。虎族の里に向かって旅をしているものです。」
「これはご丁寧に。私はこの谷の集落の里長をしている山羊族のマシュナと申す。それで何用ですかな?」
「この集落の傍でいいので、夜が明けるまで泊まらせていただきたいのです。荷車があるので一晩そこで過ごしたいと思いまして。」
「そんなことかい。気になさらず泊まっていくといい。まぁ立ち話もなんだ、入るといいさ。」
「ありがとうございます!お邪魔します。」
里長のマシュナさんは、風と星を司るこの谷の古き守り手だという。
しわ深く刻まれた顔は、歳月の重みを語りながらも、どこか冴えた光を宿していた。
「リアと言ったか。黒猫の娘かい。」
リアを見つめるマシュナの声は低く、しかしあたたかかった。
「この谷は風と星とでできている。風が変われば、空も変わる。お主の心にも、きっとね。」
そう言ってマシュナは微笑み、谷に宿る者としての礼を込めて、灯生たちに一晩の宿を提供してくれた。
「この谷はよく響く風が吹くよ。それに今夜は星がよく見える。」
小屋の中には、薪の香りと乾いた草の匂いが満ちていた。
囲炉裏の上には素焼きの鍋が吊るされ、山菜と豆を煮込んだスープがふつふつと湯気を立てている。
ふつふつと煮える鍋からは、山の夜を包むような香りが立ち上っていた。
食事には穀物を練って蒸した団子も添えられ、どれも素材の味がしっかりと生きていた。
「これ、身体に沁みるにゃぁ。」
リアが思わず漏らすと、マシュナは目尻を下げてうなずいた。
「この谷はね、優しさしかないのさ。そうじゃないと、風に持ってかれちまうからねぇ。」
ルーナやセリーヌ、カメ吉も食事を楽しみながら、それぞれの旅の疲れを癒していく。
アルファスと灯生が明日の旅程について小声で話し合う一方で、リアはそっと立ち上がった。
「フラル、外に行こうかにゃ。」
夕暮れから夜に変わる空。星がぽつ、ぽつと灯りはじめ、夜の風が谷を撫でていた。
段々畑の端に腰を下ろし、フラルと並んで夜空を仰ぐ。
「ねえ、リアお姉ちゃん」
「ん?」
「お母さん、いなくなっちゃったの?」
リアは答えに詰まる。
でも、隣でじっと見つめるフラルの目が、ただ優しく問いかけているだけだと分かって、静かに頷いた。
「虎族の里にいるにゃ。きっと。」
「じゃあね、お願いしようよ。星に。」
フラルは白い綿毛の花を差し出した。
夕方にも一緒に飛ばした、あの小さな願いの種。
「夜の風は、すっごく遠くまで届くんだって。だから、ママにも届くよ。」
リアは綿毛を受け取り、そっと唇を寄せた。心の中で浮かんだのは、幼いころの記憶。
母に抱かれて、安心して眠ったあの腕のぬくもり。
「元気だよって、伝わるといいにゃ。」
ふっと吹いた。
綿毛は風に舞い、ふわり、ふわりと夜空へ昇っていく。
「フラル、ありがとにゃ!」
「ううん。わたし、お姉ちゃんができてうれしい!」
ふたりは寄り添い、言葉少なに星を見上げていた。
谷の風笛がカラカラと鳴り、音のない歌を空に届けていた。
やがてフラルが小さな声で言った。
「この谷、ずっと風が歌ってるの。わたし、ここが大好き!」
リアは頷きながら答えた。
「リアも、少しだけ、好きになったにゃ。」
その夜、灯生は一人、カメ吉の甲羅の上に登って空を見ていた。
風は静かで、空は広かった。
星がまたたく空の下、そっと目を閉じた。
リアが眠りにつくその小屋の中では、フラルの寝息がかすかに聞こえていた。
夜の風がまた、そっと綿毛をさらっていく。
それは、星と心を結ぶ風だった。