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10 約束の綿毛


谷に朝が訪れていた。


夜の静けさは嘘のように、鳥たちが軽やかに枝を跳ね、葉の間を風がすり抜ける。小屋の前では、マシュナが囲炉裏の灰を払っている。


「風が変わった。そろそろ、旅立ちのときだね。」


灯生たちは荷をまとめながら、昨日の余韻を噛みしめていた。


「ここには不思議な静けさがあるね。」


ルーナが空を見上げながら言う。谷の空はどこまでも青く、霧がほどけるように朝陽を受けていた。


「旅人にとって、風は門さ。」


マシュナは、谷の最奥にある崖の方を指差した。


「風を読めば、出口が見える。この谷に入ってくる時には見えなかったけど、戻る時には開かれる。それが、この地の古い仕組みなんだよ、そろそろ“谷の出口”が開く頃だね。」


マシュナは、囲炉裏の火を灰に埋めながらそう言った。


「谷には道が三つある。ひとつは来た道。ひとつは崖の上を抜ける山道。そしてもうひとつは、風に乗る道さ。」


「風に?」


ルーナが首を傾げると、マシュナは小さな巻物を取り出した。羊皮紙のようなものに、円形の図が描かれている。


「この谷には古いいしぶみが点在してる。その碑はね、風の道を繋ぐ役割を持っているんだよ。」


灯生が小さく反応する。


「ここは音が生きている場所なんだ。記された詩文が、風を導き、道を繋ぐ。けれど、碑のひとつが、風を失って黙ったままなんだよ。」


灯生とルーナが視線を交わす。


「それを、探してみよう。」


「いい判断だ。あたしも何かを感じていた。昨日の風は、何かを運んできていたようだったからね。」



一行は、小屋を後にし、マシュナの導きで谷の奥へと進んだ。


苔むす石畳の道を歩いていくと、空が開け、風が強く吹き抜ける高台へと出た。そこに、ひときわ大きな碑が立っていた。


しかしその碑の表面は割れ、文字の多くが風化して読めなくなっていた。


「これは・・・。」


灯生が手を触れると、一瞬、碑の内側から風の音のような囁きが漏れた。

リアがそれに気づいて一歩近づく。


「声が、聞こえるにゃ。」


その瞬間、フラルが碑の前に立った。


「わたし、言ってみる」


「フラル?」


フラルは、リアと吹いた綿毛のように、そっと息を吸って、短い詩をつぶやいた。


『ひとひらの風、星の名を呼ぶ。ねむる言葉よ、いま空を渡れ』


碑が音もなく震え、削れた面が一瞬だけ光を帯びる。そして、吹き抜ける風の向きが変わった。


「風が生きてる?」


「いや、開いたんだ。」


灯生の声が、風にかき消されながらも確かに響く。


碑の向こう、断崖の先に霧が晴れ、一本の吊り橋が姿を現した。その向こうには、朝焼けに染まる深い森の影が見えた。


マシュナがつぶやく。


「風はまた旅人を導く。星の歌は、まだ終わっちゃいないよ。フラル、お前さんはここまでだよ。」


振り返ると、フラルが手を組んで立っていた。

昨夜の綿毛のことが、二人のあいだにまだ残っている。


「ほんとに・・・行くの?」


「うん。」


リアは口をきゅっと結ぶ。


「一緒には、行けない?」


フラルの問いに、リアは首を振った。


「フラルとは一旦ここでお別れ。」


「私はリアと一緒に、もっと見たかったよ。夜の星も、風の外の世界も。」


フラルの瞳に、揺れる光が浮かぶ。


リアは彼女の手を取った。そして、小さな包みを差し出す。

中には、昨夜の綿毛の実が三つだけ入っていた。


「これ、持ってて。きっと、また吹くときが来るよ。そしたら、今度は私が風を追いかけて戻ってくる。」


フラルは、何かを飲み込むようにして頷いた。


「ぜったい、忘れないよ。約束だよ!」


「約束!」


短い出会いの中に、確かな絆が宿った瞬間だった。



「ここを越えれば、平野が広がる。しばらく行けば、虎族の里があるはずさ。」


マシュナの言葉に、灯生が頷いた。


「彼らと接触するなら、今が好機だ。南の森が動き出しているという話も聞く。」


「マシュナさん、少しの時間だったけどありがとう。また来ます!」


俺たちは2人を背に、一本の吊り橋を渡る。

その向こうには、見知らぬ森と、大地の広がりが待っていた。


灯生は最後に谷を振り返る。


朝の光の中、小さな影がこちらを見送っていた。

リアは手を振り返す。遠くのフラルも、風に手をかざしながら静かに笑っていた。


「行こう。」


風が吹いた。旅は続く。出会いと別れを繰り返しながら。

そして、虎族の里へと、リアの両親の元へ。


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