谷に朝が訪れていた。
夜の静けさは嘘のように、鳥たちが軽やかに枝を跳ね、葉の間を風がすり抜ける。小屋の前では、マシュナが囲炉裏の灰を払っている。
「風が変わった。そろそろ、旅立ちのときだね。」
灯生たちは荷をまとめながら、昨日の余韻を噛みしめていた。
「ここには不思議な静けさがあるね。」
ルーナが空を見上げながら言う。谷の空はどこまでも青く、霧がほどけるように朝陽を受けていた。
「旅人にとって、風は門さ。」
マシュナは、谷の最奥にある崖の方を指差した。
「風を読めば、出口が見える。この谷に入ってくる時には見えなかったけど、戻る時には開かれる。それが、この地の古い仕組みなんだよ、そろそろ“谷の出口”が開く頃だね。」
マシュナは、囲炉裏の火を灰に埋めながらそう言った。
「谷には道が三つある。ひとつは来た道。ひとつは崖の上を抜ける山道。そしてもうひとつは、風に乗る道さ。」
「風に?」
ルーナが首を傾げると、マシュナは小さな巻物を取り出した。羊皮紙のようなものに、円形の図が描かれている。
「この谷には古い
灯生が小さく反応する。
「ここは音が生きている場所なんだ。記された詩文が、風を導き、道を繋ぐ。けれど、碑のひとつが、風を失って黙ったままなんだよ。」
灯生とルーナが視線を交わす。
「それを、探してみよう。」
「いい判断だ。あたしも何かを感じていた。昨日の風は、何かを運んできていたようだったからね。」
一行は、小屋を後にし、マシュナの導きで谷の奥へと進んだ。
苔むす石畳の道を歩いていくと、空が開け、風が強く吹き抜ける高台へと出た。そこに、ひときわ大きな碑が立っていた。
しかしその碑の表面は割れ、文字の多くが風化して読めなくなっていた。
「これは・・・。」
灯生が手を触れると、一瞬、碑の内側から風の音のような囁きが漏れた。
リアがそれに気づいて一歩近づく。
「声が、聞こえるにゃ。」
その瞬間、フラルが碑の前に立った。
「わたし、言ってみる」
「フラル?」
フラルは、リアと吹いた綿毛のように、そっと息を吸って、短い詩をつぶやいた。
『ひとひらの風、星の名を呼ぶ。ねむる言葉よ、いま空を渡れ』
碑が音もなく震え、削れた面が一瞬だけ光を帯びる。そして、吹き抜ける風の向きが変わった。
「風が生きてる?」
「いや、開いたんだ。」
灯生の声が、風にかき消されながらも確かに響く。
碑の向こう、断崖の先に霧が晴れ、一本の吊り橋が姿を現した。その向こうには、朝焼けに染まる深い森の影が見えた。
マシュナがつぶやく。
「風はまた旅人を導く。星の歌は、まだ終わっちゃいないよ。フラル、お前さんはここまでだよ。」
振り返ると、フラルが手を組んで立っていた。
昨夜の綿毛のことが、二人のあいだにまだ残っている。
「ほんとに・・・行くの?」
「うん。」
リアは口をきゅっと結ぶ。
「一緒には、行けない?」
フラルの問いに、リアは首を振った。
「フラルとは一旦ここでお別れ。」
「私はリアと一緒に、もっと見たかったよ。夜の星も、風の外の世界も。」
フラルの瞳に、揺れる光が浮かぶ。
リアは彼女の手を取った。そして、小さな包みを差し出す。
中には、昨夜の綿毛の実が三つだけ入っていた。
「これ、持ってて。きっと、また吹くときが来るよ。そしたら、今度は私が風を追いかけて戻ってくる。」
フラルは、何かを飲み込むようにして頷いた。
「ぜったい、忘れないよ。約束だよ!」
「約束!」
短い出会いの中に、確かな絆が宿った瞬間だった。
「ここを越えれば、平野が広がる。しばらく行けば、虎族の里があるはずさ。」
マシュナの言葉に、灯生が頷いた。
「彼らと接触するなら、今が好機だ。南の森が動き出しているという話も聞く。」
「マシュナさん、少しの時間だったけどありがとう。また来ます!」
俺たちは2人を背に、一本の吊り橋を渡る。
その向こうには、見知らぬ森と、大地の広がりが待っていた。
灯生は最後に谷を振り返る。
朝の光の中、小さな影がこちらを見送っていた。
リアは手を振り返す。遠くのフラルも、風に手をかざしながら静かに笑っていた。
「行こう。」
風が吹いた。旅は続く。出会いと別れを繰り返しながら。
そして、虎族の里へと、リアの両親の元へ。