吊り橋を渡りきった瞬間、空気は一変した。
霧の白が遠ざかり、代わりに濃く深い緑が視界を覆う。
風が湿り気を帯びて流れ、草木の香りが鼻先を優しくくすぐった。
振り返れば、シェルヴァの谷はもう霧の向こう。
深い山と森の境界を進む道は、まるでこの世の外へと続いているかのようだった。
人の手の届かぬ自然──そこには、言葉を持たぬ静寂と、しかし確かに息づく命の気配があった。
灯生たちは無言のまま、柔らかな草を踏みしめて歩く。
風が揺らした枝が陽を遮り、鳥の声が遠くに響く中、ただ足音だけが耳に残る。
リアの尾が静かに揺れていた。
その耳がぴくりと動くたび、彼女は周囲の空気を探るように目を細める。
浮き足立った様子、とは言わない。けれど──何かを期待し、そしてどこか怯えているようにも見えた。
「リア、大丈夫か?」
灯生の声に、リアは肩を小さく跳ねさせた。
「うん、ちょっと、そわそわしてるだけ。」
彼女は笑ってみせたが、その目は遠くを見ていた。
カイ──叔父であり、ケルバ城の前線隊長でもある虎族の戦士──から告げられたあの言葉。
「リアの両親は、生きている。」
その真実を確かめに来たのだ。否応なく、心は波立っていた。
やがて一行は広がる草原を抜け、深い森の中へと踏み込む。
木々は空を覆うほどに高く伸び、その枝葉が昼なお薄暗くしていた。
小道に踏み入った瞬間、音が変わった。
鳥のさえずりが途絶え、代わりに風の音が、足音を追い越して走る。
灯生がふと立ち止まる。
「来る。」
次の瞬間──
ざんっ。
草を裂き、木陰から現れたのは、虎の耳と鋭い瞳を持つ男。
無骨な体躯に、背負った大太刀。
その周囲の木々からも、続々と影が現れた。気配を殺し、しかし確実に包囲するように。
獣のような鋭い眼光、鍛え上げられた身体、そして背中に負った大太刀。
彼の後ろからは次々と仲間が姿を現し、あっという間に一行を囲い込んだ。
「名を名乗れ!」
その声は、地を這うように低く、威圧感を含んでいた。
「ここは外の者の来る場所ではない。名を名乗れ。里を侵す者に問答の猶予はない。」
アルファスが一歩前に出、無言のまま灯生を見やる。
灯生はゆっくりと両手を挙げ、敵意がないことを示す。
そのまま一歩、前へ出た。
「我々は争いに来たのではない。」
声は穏やかで、しかし一言一言に力があった。
「仲間の黒猫の獣人リアの両親がこの里に生きていると、カイから聞いた。真実を確かめに来た。」
その名を聞いた瞬間、周囲の空気が変わる。緊張が増すのではなく、驚きが混じった沈黙。
「カイさんの?本当に?」
ひとりの戦士がリアをまじまじと見つめる。
灯生は続ける。
「彼女の名はリア。カイの姪であり、我々の仲間だ。」
別の年配の虎族が目を細めて彼女を見た。
「……その目……黒猫の獣人にして、その金の瞳。確かに……。」
小さく息を吐いて続けた。
「里長から伝えは受けている。だが、それが本物かどうかは我らでは判断できぬ。」
男が手を挙げると、周囲の戦士たちがすっと道を開けた。
「ついて来い。案内しよう。」
そう言って、虎族の戦士のひとりが森の奥へと道を示す。
緊張を解かぬまま、灯生たちは虎族の案内に従い、森の奥へと足を踏み入れた。
導かれるように歩を進めると、やがて霧が薄く漂い始める。
そこを抜けた先に現れたのは、自然と調和するように築かれた集落。
巨木に抱かれ、木の上に組まれた住居。水の音、葉擦れの音が里を満たしている。
リアは、どこか懐かしい空気を感じ取っていた。
風の匂い、木々のざわめき、子どもたちの笑い声。
すべてが、遠い記憶の底から浮かび上がってくるようだった。
その静かな息づかいに、リアの心が震えた。
「……なんか……懐かしい。」
風の匂い、木の揺れる音、遠くから聞こえる誰かの声。
そのすべてが、幼い頃に過ごした景色のどこかに繋がっていた。
一つの家の前に立ったとき、扉が静かに開く。
そして、低く、震えるような声が中から響いた。
リアと同じ金の瞳の人物が姿を見せた。
「リアか?」
その声を聞いた瞬間、リアの体がぴくりと震える。
振り返る必要もなかった。彼女はその声を覚えていた。
幼い日の記憶に何度も、何度も響いていた声。
目を見開いた彼女の表情に、涙が浮かぶ。