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16 動き出す王子


——王城の謁見の間。


静まり返った空間に、アステッド王子の足音だけが硬く響いていた。

部屋を満たす荘厳な空気とは裏腹に、彼の胸中には暴風のような感情が渦巻いていた。


──正義とはなんだ。

──王族として、誇りとは。


王子は、宝箱に詰められた自軍の首級を見せつけられた衝撃を、いまだ拭えずにいた。

屈辱。怒り。だがそれだけではない。

何より、無力だった自分自身への悔しさが、内臓を抉るように痛む。


「……なぜ、父上は何も言わぬ……。」


一人ごちた声は、石造りの柱に吸い込まれるように消える。

王国の上層部は沈黙を貫いていた。

第一王子も、第二王子も、軍部も。どこか他人事のように、この事件を「終わったこと」として処理しようとしている。


「終わってなどいない……!」


王子は拳を強く握りしめた。

それは、自分の信じる“正義”と、王家という巨大な枠組みの間で揺れる若者の、叫びにも似た心の声だった。


——王子の少年時代。


兄たちに比べて、常に“影”で育ってきた。

長男は次期国王としての教育を受け、次男は軍略と政務の天才として名を馳せた。

自分には何もなかった。ただ、王族として生まれただけの“枠”だけがあった。


だからこそ、自分には“正義”しかなかった。


「見ていてくれ、兄上たち。俺は、王国のために剣を振るう……この手で、正義を示してみせる!」


王子は、玉座を背に振り返り、まるで誰もいないはずの誰かに誓うように呟いた。



——夜明け前の王都ランドベルク。


まだ薄闇が町を包む刻、王城の中庭には異様な気配が漂っていた。

重厚な鎧に身を包んだ兵士たちが、次々と中庭に集結していく。

剣士団、槍兵団、騎馬隊──そして、魔術管理局直属の魔術対策部隊。

そのどれもが眠気を振り払うように整列していた。


「こんな時間に召集とは……王子殿下は本気らしい。」


「ケルバの獣人共に報いを、というやつだろう。」


将校たちの間に、緊張と困惑が入り混じった囁きが飛び交う。

──その中心に現れたのは、アステッド・ランドベルク王子。

夜会服のまま、マントを翻しながら壇上に立つ彼の眼は血走っていた。

それでも、その声は静かに、しかし凛と響いた。


「兵どもよ。昨日、我らが仲間は辱めを受けた。

命を奪われ、首を弄ばれ、箱に詰めて送り返された。これが戦でなくて何だ!」


ざわめきが広がる。

兵たちの多くは、その“箱”の噂を耳にしていたが、王子の口から正式に聞いたのは初めてだった。


「我は父上に先んじて動く。これは命令ではない。正義だ。

正義を汚されたならば、それを以て正す。それが我ら王国軍の誇りだ!」


兵たちの目が、静かに燃え始めた。

その日、第二師団の臨時編成が開始された。

魔術対策部隊に新たな装備が支給され、獣人戦に特化した術式の調整が進む。

剣士団には過去に獣人討伐の経験を持つ兵士が選抜され、治癒師たちも夜を徹して配置された。



——王国の街では。


酒場では誰かが叫んでいた。


「第二師団が動くらしいぞ!」


商人が憂いを込めて呟く。


「また戦か……。税も兵も、また取られる。」



——王城の一室。


アステッドは蝋燭の灯の中、机に向かっていた。誰もいない静寂の中で、彼は何かを綴っていた。

──それは父王への手紙。だが、まだ送られることはない。


「俺を笑うな。俺は“正しいこと”をした。誰も動かぬなら、俺がやる。」


かすかな呟きとともに、王子は書簡を封じた。



時同じくして、獣人国ケルバの高台。

斥候が駆け込む。


「王都の第二師団、動きあり!編成が急速に進んでおります!」


「思ったより早かったな」と、カイが唇を歪めて笑う。


「これは……また派手なお出迎えが必要ですね」と、灯生が静かに呟く。


灯生は言葉を発さず、ただ空を見上げていた。

その瞳に映るのは、来るべき戦ではなく──その先にある、もっと深い何かだった。


「始まるか。」


その言葉は、誰にも向けられたものではなかった。


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