翌朝。
ミンチェスター邸の応接室には、昨日とほぼ同じ顔ぶれが揃っていた。
柔らかな朝陽が差し込む窓辺で、サルビア・ミンチェスターは静かに湯を注ぎながら、客人たちの表情を確かめていた。
「まずは、改めて感謝を。こうして再び話の場を設けてくださったことに。」
灯生が頭を下げると、サルビアは僅かに頷いた。
ネルビアは父の傍に控え、空気が滞らぬよう細やかに気を配っている。
魔王はというと、やや離れた椅子に深く腰を沈め、窓の外を見つめたまま、何も言わなかった。
「さて」サルビアが湯気越しに言葉を継ぐ。
「昨夜は主に、君たちの旅路の概略を聞いた。
だが私は、まだ断片しか知らない。今日は……もう少し詳しく聞かせてもらえるか?」
灯生は短く頷いた。
話の主導を取ったのは彼だった。
「王国が、動いている。獣人国ケルバのライザン長老が魔人国に対して同盟をと考えておられます。
ケルバを初めて伺った際、半年前の王国軍による戦跡が多く見られましたが、街も民たちも私が魔法で治し復興しております。そして、結界魔法も施したので獣人国自体には傷一つ付けられないでしょう。」
「ならばなぜ同盟を?」と、ネルビアが反応する。
「再び攻めてきた王国軍の様子からするとまた戦争を仕掛けてくる可能性は高いです。」
「それもそうだが」と、重く言ったのは魔王だった。
彼はようやく視線を戻し、長い指を組んだまま静かに告げた。
「灯生よ。お主も、あれだけ派手にやらかせば、火に油を注いだようなものだぞ。」
「それはどういう?」
サルビアは不思議そうに灯生の方を向いた。
「そ、それはその……。ケルバの近くに駐屯地があったのでそこを攻めて王国に送り返しただけですよ。」
灯生は「いらんことを言いやがって」という顔を魔王に向けたが、プイっと顔を逸らした。
「ケルバとの同盟には私も賛成です。これまでもお互い助け合っていた仲ですから。」
「そうと決まれば早速ライザン長老と。」
サルビアは灯生の言葉を制すように、手のひらを軽く上げた。
「それは少し待ってください。一応ここは王国と魔人族との中立を保っている……。
そうでなくても、今このタイミングで我が家が動けば、サリヴァンの立場そのものに疑義を抱かれかねません。」
「では、どうすれば?」
灯生が問い返すと、サルビアは静かに椅子に寄りかかった。
「一つ、案があります。マトシリカのカンタレラ公爵を訪れてみては?」
「カンタレラ公爵……ですか?」
「ええ。今なお王国、他国、そして私たちのような中立派の貴族の間で、唯一、比較的安全に情報が往来できる地。あそこなら、王国の動きや意図も、多少は探ることができるでしょう。」
「カンタレラ公爵……あの飄々とした方ですね。」
ネルビアが呟くと、サルビアは軽く笑った。
「彼は、見た目通りの皮肉屋ですが、実は平和主義で誰よりも空気を読む人間です。
王国とも関係が深く、彼に会えれば何かしらの手がかりは得られるはずです。」
「なるほど……。それなら、すぐにでも準備を。」
灯生が立ち上がろうとした瞬間、魔王が低く、ぼそりと呟いた。
「……龍人族に話してみるのはどうかね。」
全員の動きが止まる。
サルビアが眉をひそめる。
「龍人族、とは?」
魔王は、ゆるやかに椅子にもたれたまま、外の陽光を見つめていた。
「昔話だ。お前たちがまだ聞いたこともないほど古い……。
人がまだ、空の向こうを畏れ、地に語りかけていた太古の時代の話だ。
この地に国など影も形もなかった頃、はるか空を翔ける巨なる古龍がいた。
その死骸が今のドラゴン山脈と呼ばれておる。」
一同が息をのむ中、魔王は静かに続けた。
「龍人族は、その山を代々守ってきた誇り高き民だ。
彼らは古き血を受け継ぎ、龍の魂と共に生きている。
今は山脈の向こうで、ひっそりと暮らしているがな。」
「……魔王さんは、その龍人族を知っているのですか?」と、灯生。
「ああ。数千年前、我が初めてこの地上に召喚された時。
この身をまだ魔王と呼ばれてもよく分からぬまま、闇と混乱の只中に投げ出された頃。
……一人の龍人族の友が、我にこの世界のことを教えてくれた。」
「友?」とネルビアが目を見開く。
魔王の目が細くなる。懐かしむように、どこか遠くを見ていた。
「愚直で、熱くて、何より優しき男だった。
おかげで、わしはただ破壊するだけの存在にならずに済んだ。
我が魔王として世界と向き合う決意を持てたのも、あやつのおかげかもしれん。」
室内を、重くも静かな空気が包み込む。
「なぜ今、彼らに話を?」とサルビア。
「龍人族は静かにしておるが……。いずれ、あの山が目覚める。
この世界が乱れる時、龍の記憶もまた騒ぎ出すのだ。
あやつらが眠ったままである限り、本当の意味でこの戦乱は終わらん。」
「……それはつまり、今がその時だと?」
魔王は目を閉じ、短く呟いた。
「時が来たら語らおう。」
この日、風は静かだった。
しかし空の奥底では、確かに雲が、集まり始めていた。