午後の柔らかな陽光が、ミンチェスター邸の応接室に降り注いでいた。
窓辺のレース越しに射す光は、白磁のティーカップを優しく照らしている。
数日前に交わされた、やや緊迫した空気はそこにはなかった。
代わりに満ちていたのは、沈黙の底に流れる、静かな決意の気配だった。
「龍人族との同盟、考えてみる価値はある。」
魔王がソファの背にもたれながら、そう言った。
「龍人族……。先日聞いた種族ですか。」
「うむ。古い種族だ。人でも魔でもない。
かつて王国とも関係を持っていたが、今は山脈の向こうに閉ざされて久しい。」
魔王の話を静かに聞いていたサルビアは、紅茶のカップを置き、紫の髪をかすかに揺らしながら、目を細めた。
「ただ、彼らは太古の巨龍の意思を継いでいる者だ。
友人によれば、龍たちは死してなお、その魂を山に宿し、
時を超えて人の姿を取った子孫に知恵と力を授けるという。
……ただし、その気質は極めて閉鎖的。心を開くには相応の覚悟がいる。」
「繋がりがあるなら、会ってみたいな。龍人族に。」
静かな声だったが、灯生の瞳には確かな熱が灯っていた。
灯生は自分でも不思議なくらい、胸の奥が騒いでいた。
異なる種族、失われた記憶、そして未知の地。
この世界には、まだ知らないことが山ほどあるのだと、改めて感じた。
人でも魔でもない存在。そういうものに、なぜか惹かれるのだろう。
魔王が、懐かしむような眼差しで目を細める。
「我にこの世界の歩き方を教えてくれた龍人族の友が、生きていればいいのだが……。
あれから、随分と時が経った。」
そのときだった。
ネルビアが片眉を上げ、耳元に触れる。何かの念話が届いたのだ。
彼の表情がわずかに変わり、低く声が漏れる。
相手は、外交都市 マトシリカにいるコルビアの声だった。
『兄さん、連絡が遅くなってすまない。カンタレラ公爵より、会談の申し出があった。
こちらに来られないかと。』
「……ついに動いたか。」
念話を終えたネルビアが呟く。
サルビアがわずかに眉を動かし、「やはりそう来たか」と口の中で言った。
ネルビアが静かに言葉を継ぐ。
「中立の地、マトシリカ。
この都市は、魔人国にも王国にも属さない特殊な立ち位置にあります。
交易の要衝であり、あらゆる情報が集まり、また消えていく。
その地の領主であるカンタレラ公爵は、五大貴族に名を連ねながらも、王国に染まりきらない数少ない人物です。
外交都市の顔を持ちつつ、王国とも魔人国とも直接的な敵対を避けてきた場所なのです。」
つまり、唯一のバランス役、というわけか。
「俺も行きたいです。」
灯生はまっすぐに手を挙げた。
「この耳で、話をちゃんと聞いてみたいんだ。どうして公爵が今動いたのか……。
そして、これから何を選ぼうとしているのかを。」
魔王は一瞬だけ驚いたように灯生を見つめ、それから口元に笑みを浮かべた。
「ならば、我も共に行こう。だが……人間の都市に入るには、姿を変えねばなるまいな。」
指をひとつ鳴らすと、次の瞬間、魔王の姿は変わった。
壮麗な銀の長髪は短く整えられ、肌の色は人間のものに近づく。
装いも、飾り気を抑えた貴族風の装束へと変わり、
そこにいたのは、どこにでもいそうな温和な青年の姿だった。
「……よくそんなすんなり化けられるもんだね。」
灯生が呆れ混じりに言うと、
「まぁ、人間に化けるのは得意なのだよ。」
魔王はどこか得意げに微笑んだ。冗談とも本気ともつかぬその顔に、思わず笑みがこぼれる。
「では、マトシリカへの旅支度を整えましょう。灯生君、魔王様。」
サルビアが席を立つ。
ネルビアもゆっくり立ち上がりながら、父へと向き直る。
「父さん。私はいつも通りこの屋敷に残ります。
他の兄弟たちとも連絡を取り合う必要がありますし、ミンチェスター邸を守る役目もありますから。」
その言葉に、灯生は深く頷いた。
「了解だ、ネルビアさん。……必ず、何かを掴んで戻ってくるよ。」
こうして、灯生、魔王、そしてサルビアの三人は、外交都市マトシリカへ向けて旅立つこととなった。
整えられた荷と、それぞれの胸に秘めた思惑。
向かう先は、王国と魔人国の狭間で、何度も歴史の均衡を調整してきた地。
見えるもの、見えないもの、そのどちらもが試される場だった。
そして、そこに集おうとする者たちは、何を望むのか。
誰が静寂を破り、何を誘おうとしているのか。
足音は、静かに。けれど確かに、次の局面を鳴らし始めていた。