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4 マトシリカへの誘い


午後の柔らかな陽光が、ミンチェスター邸の応接室に降り注いでいた。

窓辺のレース越しに射す光は、白磁のティーカップを優しく照らしている。

数日前に交わされた、やや緊迫した空気はそこにはなかった。

代わりに満ちていたのは、沈黙の底に流れる、静かな決意の気配だった。


「龍人族との同盟、考えてみる価値はある。」


魔王がソファの背にもたれながら、そう言った。


「龍人族……。先日聞いた種族ですか。」


「うむ。古い種族だ。人でも魔でもない。

 かつて王国とも関係を持っていたが、今は山脈の向こうに閉ざされて久しい。」


魔王の話を静かに聞いていたサルビアは、紅茶のカップを置き、紫の髪をかすかに揺らしながら、目を細めた。


「ただ、彼らは太古の巨龍の意思を継いでいる者だ。

 友人によれば、龍たちは死してなお、その魂を山に宿し、

 時を超えて人の姿を取った子孫に知恵と力を授けるという。

 ……ただし、その気質は極めて閉鎖的。心を開くには相応の覚悟がいる。」


「繋がりがあるなら、会ってみたいな。龍人族に。」


静かな声だったが、灯生の瞳には確かな熱が灯っていた。

灯生は自分でも不思議なくらい、胸の奥が騒いでいた。


異なる種族、失われた記憶、そして未知の地。

この世界には、まだ知らないことが山ほどあるのだと、改めて感じた。

人でも魔でもない存在。そういうものに、なぜか惹かれるのだろう。


魔王が、懐かしむような眼差しで目を細める。


「我にこの世界の歩き方を教えてくれた龍人族の友が、生きていればいいのだが……。

 あれから、随分と時が経った。」


そのときだった。

ネルビアが片眉を上げ、耳元に触れる。何かの念話が届いたのだ。

彼の表情がわずかに変わり、低く声が漏れる。

相手は、外交都市 マトシリカにいるコルビアの声だった。


『兄さん、連絡が遅くなってすまない。カンタレラ公爵より、会談の申し出があった。

 こちらに来られないかと。』


「……ついに動いたか。」


念話を終えたネルビアが呟く。

サルビアがわずかに眉を動かし、「やはりそう来たか」と口の中で言った。

ネルビアが静かに言葉を継ぐ。


「中立の地、マトシリカ。

 この都市は、魔人国にも王国にも属さない特殊な立ち位置にあります。

 交易の要衝であり、あらゆる情報が集まり、また消えていく。

 その地の領主であるカンタレラ公爵は、五大貴族に名を連ねながらも、王国に染まりきらない数少ない人物です。

 外交都市の顔を持ちつつ、王国とも魔人国とも直接的な敵対を避けてきた場所なのです。」


つまり、唯一のバランス役、というわけか。


「俺も行きたいです。」


灯生はまっすぐに手を挙げた。


「この耳で、話をちゃんと聞いてみたいんだ。どうして公爵が今動いたのか……。

 そして、これから何を選ぼうとしているのかを。」


魔王は一瞬だけ驚いたように灯生を見つめ、それから口元に笑みを浮かべた。


「ならば、我も共に行こう。だが……人間の都市に入るには、姿を変えねばなるまいな。」


指をひとつ鳴らすと、次の瞬間、魔王の姿は変わった。

壮麗な銀の長髪は短く整えられ、肌の色は人間のものに近づく。

装いも、飾り気を抑えた貴族風の装束へと変わり、

そこにいたのは、どこにでもいそうな温和な青年の姿だった。


「……よくそんなすんなり化けられるもんだね。」


灯生が呆れ混じりに言うと、

「まぁ、人間に化けるのは得意なのだよ。」


魔王はどこか得意げに微笑んだ。冗談とも本気ともつかぬその顔に、思わず笑みがこぼれる。


「では、マトシリカへの旅支度を整えましょう。灯生君、魔王様。」


サルビアが席を立つ。

ネルビアもゆっくり立ち上がりながら、父へと向き直る。


「父さん。私はいつも通りこの屋敷に残ります。

 他の兄弟たちとも連絡を取り合う必要がありますし、ミンチェスター邸を守る役目もありますから。」


その言葉に、灯生は深く頷いた。


「了解だ、ネルビアさん。……必ず、何かを掴んで戻ってくるよ。」


こうして、灯生、魔王、そしてサルビアの三人は、外交都市マトシリカへ向けて旅立つこととなった。


整えられた荷と、それぞれの胸に秘めた思惑。

向かう先は、王国と魔人国の狭間で、何度も歴史の均衡を調整してきた地。

見えるもの、見えないもの、そのどちらもが試される場だった。


そして、そこに集おうとする者たちは、何を望むのか。

誰が静寂を破り、何を誘おうとしているのか。

足音は、静かに。けれど確かに、次の局面を鳴らし始めていた。


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