深夜の鐘が、聖都グラティオルの石畳に冷たく響く。
イヴアダ大教会の地下。外界と断絶された古の礼拝堂は、蝋燭の炎が無数に揺れていた。
そこはもはや祈りの場ではない。血の供物を捧げる、選別と昇華の儀式空間だった。
円形の祭壇を囲むように、白衣の信徒たちが沈黙を保ってひざまずく。
彼らの額には、天使語で刻まれた小さな焼印があった。
それは生涯に一度、神に命を差し出す覚悟を誓った者の証、贖いの印。
祭壇の前に集う白衣の信徒たちは、ひとり残らず目を閉じて沈黙している。
壇上に立つ男の法衣は金糸で縁取られ、荘厳というよりは神殿に仕える王のようだった。
ザラディオ・アルカルロ。イヴアダ教会の大司教にして、“神の声を聴く者”。
「願わくば、罪深き肉に祝福を。魂は天に、骨は灰に、血は地を潤す露となれ。
神の御前に、贄を捧ぐ。肉は塵に、魂は
朗々としたその声に、信徒たちの口が一斉に動き始める。祈祷の応唱。
中央の祭壇には、今まさに「神への供物」として選ばれた少年が、淡く光る封印の鎖に囚われていた。
少年は恐怖に震えていたが、信徒たちは誰ひとりとして哀れむ目を向けない。
神の肉を喰らうことは、天上への道を開く“栄誉”なのだと、教え込まれている。
ザラディオは手を掲げ、柔らかく笑う。
彼の目は、少年を見ていなかった。いや、見えていなかった。
彼の視線は、もっと高次の世界、神の理だけを見据えている。
「我らが主イヴアダよ。この身、この血、この魂を、あなたに捧げん。
人が神の片鱗を喰らいしとき、天の扉は開かれる。」
次の瞬間、少年の意識が霧散する。
それを合図に、白衣の者たちが順に祭壇へ進み、ほんのひとかけらの“肉”を杯に受け取っていく。
血を含んだ聖杯が回される頃、天井に、誰もが見上げる異変が現れた。
そこには、光の輪が幾重にも交差し、やがてひとつの形をつくる。
──だが、その時だった。
礼拝堂の天井に、誰かが声を上げた。
「見ろ……!」
それはやがて、古の天使語で構成された印章となり、空中に輝きを宿した。
誰かが震える声で呟く。
「これは……神託だ……!」
ザラディオはその輝きを見上げ、瞳に狂気じみた歓喜を宿す。
彼の耳には、確かに声が聞こえた。
──我、見たり。信なき地に、刃を下ろせ。
──血によりて浄められ、血によりて開かれん。
──“聖戦”を告げる。汝ら、剣を掲げよ。
神託。確かな、明確な、命令。
神は今、語ったのだ。血の祈りが、天に届いたのだ。
ザラディオはゆっくりと振り返り、信徒たちに向かって告げた。
「主は仰せられた。我らに求められているのは、決断。剣と炎と信仰による選別であると!」
彼の声が高らかに響くたび、白衣たちが歓喜と狂乱に震え、涙を流す。
「イヴアダの名において告げる。
今ここに、“聖戦”の時が満ちた。我らは選ばれし者として、不浄の者どもを打ち払わねばならぬ。
神の火で、血で、祈りで!」
それは全員の喉から絞り出された、絶対の信だった。
沈黙していた信徒たちが、狂おしいほどの歓喜で泣き出した。
天使になる道が、ようやく開かれるのだと。
やがて儀式が終わり、ザラディオはただ一人、礼拝堂を後にし、薄暗い廊下を進む。
彼の元にはすでに、第2王子派から密使が訪れている。
「王国は今、愚者の手にある。真の王とともに、神の正義を果たす時が来た。
貴方の力が必要です、大司教。」
若い密使の言葉に、ザラディオは頷く。
「この地に、再び“選別の炎”が降ることを、主も望んでおられる。第二王子を呼べ!」
若い密使は王城へと向かった。
すぐに王城より密かに訪れた黒衣の客人がきた。
少年のような若さを保ちながら、どこか冷ややかな王族の気配。
ランドベルク王国 第二王子、ヴェルセリア・ランドベルク。
「ザラディオ大司教。聖戦の刻印が現れたとの噂、事実ですか。」
「事実です。そして、それは貴方の正義を天が認めたという証。
ヴェルセリア王子。神は、貴方に王冠を求めておられる。」
王子は目を細めた。
「魔人族を討てということか。」
「討たねば、国は滅びます。人間以外は不浄です。
だがあなたは、“血に意味を与える者”だ。神の器として、ふさわしい。」
ヴェルセリアは黙したまま、ザラディオを見つめた。
そこに信仰はなかった。だが、政治と覇権と、勝利の臭いは理解していた。
やがて彼はゆっくりと頷く。
「聖戦の旗を、用意せよ。私はそれを、選ぶ側に立つ。」
ザラディオの口元が微かにほころぶ。
この夜、聖都の地下で始まった儀式は、やがて国全体を呑み込む炎となって燃え上がるだろう。
彼は窓辺に立ち、朝焼けすらも遠い夜を見下ろす。
「神の言葉は、時に血に染まってこそ、真に届くものだ。なあ、イヴアダよ?」
その声に応える者はいなかったが、礼拝堂に満ちる血の香りが、彼の狂信を祝福しているかのように漂っていた。血と信仰の名の下に、新たな戦争の火が灯った。