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5 血に染まる祈り


深夜の鐘が、聖都グラティオルの石畳に冷たく響く。

イヴアダ大教会の地下。外界と断絶された古の礼拝堂は、蝋燭の炎が無数に揺れていた。

そこはもはや祈りの場ではない。血の供物を捧げる、選別と昇華の儀式空間だった。


円形の祭壇を囲むように、白衣の信徒たちが沈黙を保ってひざまずく。

彼らの額には、天使語で刻まれた小さな焼印があった。

それは生涯に一度、神に命を差し出す覚悟を誓った者の証、贖いの印。

祭壇の前に集う白衣の信徒たちは、ひとり残らず目を閉じて沈黙している。


壇上に立つ男の法衣は金糸で縁取られ、荘厳というよりは神殿に仕える王のようだった。

ザラディオ・アルカルロ。イヴアダ教会の大司教にして、“神の声を聴く者”。


「願わくば、罪深き肉に祝福を。魂は天に、骨は灰に、血は地を潤す露となれ。

 神の御前に、贄を捧ぐ。肉は塵に、魂はきざはしとなれ!」


朗々としたその声に、信徒たちの口が一斉に動き始める。祈祷の応唱。

中央の祭壇には、今まさに「神への供物」として選ばれた少年が、淡く光る封印の鎖に囚われていた。


少年は恐怖に震えていたが、信徒たちは誰ひとりとして哀れむ目を向けない。

神の肉を喰らうことは、天上への道を開く“栄誉”なのだと、教え込まれている。


ザラディオは手を掲げ、柔らかく笑う。

彼の目は、少年を見ていなかった。いや、見えていなかった。

彼の視線は、もっと高次の世界、神の理だけを見据えている。


「我らが主イヴアダよ。この身、この血、この魂を、あなたに捧げん。

 人が神の片鱗を喰らいしとき、天の扉は開かれる。」


次の瞬間、少年の意識が霧散する。

それを合図に、白衣の者たちが順に祭壇へ進み、ほんのひとかけらの“肉”を杯に受け取っていく。


血を含んだ聖杯が回される頃、天井に、誰もが見上げる異変が現れた。


そこには、光の輪が幾重にも交差し、やがてひとつの形をつくる。


──だが、その時だった。


礼拝堂の天井に、誰かが声を上げた。


「見ろ……!」


それはやがて、古の天使語で構成された印章となり、空中に輝きを宿した。

誰かが震える声で呟く。


「これは……神託だ……!」


ザラディオはその輝きを見上げ、瞳に狂気じみた歓喜を宿す。

彼の耳には、確かに声が聞こえた。


──我、見たり。信なき地に、刃を下ろせ。

──血によりて浄められ、血によりて開かれん。

──“聖戦”を告げる。汝ら、剣を掲げよ。


神託。確かな、明確な、命令。

神は今、語ったのだ。血の祈りが、天に届いたのだ。


ザラディオはゆっくりと振り返り、信徒たちに向かって告げた。


「主は仰せられた。我らに求められているのは、決断。剣と炎と信仰による選別であると!」


彼の声が高らかに響くたび、白衣たちが歓喜と狂乱に震え、涙を流す。


「イヴアダの名において告げる。

 今ここに、“聖戦”の時が満ちた。我らは選ばれし者として、不浄の者どもを打ち払わねばならぬ。

 神の火で、血で、祈りで!」


それは全員の喉から絞り出された、絶対の信だった。

沈黙していた信徒たちが、狂おしいほどの歓喜で泣き出した。

天使になる道が、ようやく開かれるのだと。


やがて儀式が終わり、ザラディオはただ一人、礼拝堂を後にし、薄暗い廊下を進む。

彼の元にはすでに、第2王子派から密使が訪れている。


「王国は今、愚者の手にある。真の王とともに、神の正義を果たす時が来た。

 貴方の力が必要です、大司教。」


若い密使の言葉に、ザラディオは頷く。


「この地に、再び“選別の炎”が降ることを、主も望んでおられる。第二王子を呼べ!」


若い密使は王城へと向かった。

すぐに王城より密かに訪れた黒衣の客人がきた。


少年のような若さを保ちながら、どこか冷ややかな王族の気配。

ランドベルク王国 第二王子、ヴェルセリア・ランドベルク。


「ザラディオ大司教。聖戦の刻印が現れたとの噂、事実ですか。」


「事実です。そして、それは貴方の正義を天が認めたという証。

 ヴェルセリア王子。神は、貴方に王冠を求めておられる。」


王子は目を細めた。


「魔人族を討てということか。」


「討たねば、国は滅びます。人間以外は不浄です。

 だがあなたは、“血に意味を与える者”だ。神の器として、ふさわしい。」


ヴェルセリアは黙したまま、ザラディオを見つめた。

そこに信仰はなかった。だが、政治と覇権と、勝利の臭いは理解していた。


やがて彼はゆっくりと頷く。


「聖戦の旗を、用意せよ。私はそれを、選ぶ側に立つ。」


ザラディオの口元が微かにほころぶ。

この夜、聖都の地下で始まった儀式は、やがて国全体を呑み込む炎となって燃え上がるだろう。


彼は窓辺に立ち、朝焼けすらも遠い夜を見下ろす。


「神の言葉は、時に血に染まってこそ、真に届くものだ。なあ、イヴアダよ?」


その声に応える者はいなかったが、礼拝堂に満ちる血の香りが、彼の狂信を祝福しているかのように漂っていた。血と信仰の名の下に、新たな戦争の火が灯った。


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