――灯生たち一行がサリヴァンへと帰路した同刻。
玉座の間にほど近い王宮・大会議室。
その重厚な扉が、鋼のような軋みを立てて開かれた。
現れたのは、アステッド第三王子。
灰色の軍装には塵がこびりつき、肩から垂れた外套の裾は破れ、血が乾いていた。
彼の姿が現れた瞬間、集まった貴族たちの間に緊張が走る。
凍りついたような沈黙の中、王子は黙したまま会議卓の一席に腰を下ろす。
目は虚空を彷徨い、焦点を結ばない。
会議卓の最上座。静かに腰掛けていた男が、その金の瞳を細めた。
ゴルザスタイン・ランドベルク王。
王国第三十七代君主にして、軍略と理政に長けた国王である。
「……席に着け、アステッド。」
その声音は低く、しかし一切の感情を排した命令だった。
アステッドは黙って頷き、空席に身を沈めた。
王が静かに口を開く。
「戦況の報告を。」
王子は顔を伏せたまま、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「……ケルバは、想像以上でした。ミスリルの対獣人戦特化部隊も魔術管理局長のレグノーも王国魔術軍隊長のグランも、成すすべなく……。いやケルバの獣人どもではない。一人の男だ。あの男によって……。」
ざわつきが広がり、それを断ち切るようにグゼレー伯爵が冷ややかに言った。
「……それで、敗北したと。」
白銀の髭を整えた老貴族は、王子の顔を見もせず、卓上の地図に視線を落としていた。
「敵は、想像を超えていた。」
アステッドが低く答える。
「敗北の報せは受け取っていた。問題はその理由だ。獣人国は本当に、魔人族とついに同盟したのか?」
ざわめきが広がる。メディシス侯爵が鼻を鳴らす。
「そんな情報はまだ届いていない!彼らは、“原初の徴”についても……。」
「ほう……」と、メディシス侯爵が皮肉気に唇を歪める。
「まさか、神話を根拠に動くとはな。愚か者どもめ。」
「……笑い事ではない。」
サルタヴァ伯爵が厳しい声で割り込む。
淡い青の軍服を着た若き貴族だ。
「ドカチリチはどうした?」
「……正気を保ててはいない。」
アステッドの答えに、場の空気がさらに重くなる。
すでにベジハイドの領主は事実上不在。
王国の南方を担っていた要石が、音もなく崩れた。
「新たな戦線を築くには、早急に新領主を立てるしかない」
メディシスが言う。
「ドカチリチの子息は?」
「まだ十五。政務には及ばぬ。」
言葉を失った会議室に、国王の声が響く。
「ドカチリチ伯爵の除籍を正式に執り行う。領地ベジハイドは直轄とする。異論は。」
カンタレラ公爵が即座に応じる。
「妥当かと存じます。」
他の貴族たちも渋々ながら頷いた。
王は静かに目を閉じ、次の議題へ移った。
「魔人国への対応策だ。対話の道は残されているか。」
「奴らは牙を剥いた。我らが同盟情報を流した者がいた可能性もある。」
グゼレー伯爵が睨むように言うと、カンタレラが薄く笑った。
「外交都市としての立場をお忘れなく。我がマトシリカは、中立を保つ努力をしてまいりました。」
「努力では国は守れぬ。」
メディシスが吐き捨てる。
「我々には時間がない。帝国と手を組むべきだ」
「ダンタリア帝国か……。」
サルタヴァが眉をひそめる。
ダンタリア帝国。
北方に君臨する巨大国家。
王国とは長年の緊張関係を維持してきたが、今ここで貸しを作れば、帝国の軍を動かすこともできるかもしれない。
「奴らに借りを作れば、代償は我らの主権かもしれん。」
貴族たちの議論が熱を帯びる中、王はゆっくりと立ち上がった。
「……貴様らの懸念は理解する。しかし、我がランドベルク王国が再び敗北することは許されぬ。」
その声に、全員が凍りついた。
「帝国との交渉は継続する。だが主導権は渡さん。
カンタレラ公爵、貴君にはマトシリカでの交渉を一任する。必要ならば、魔人国との接触も許可する。」
「承知しました。」
カンタレラが深く一礼する。
「諸君。我が王国は今、岐路に立っている。王たる我が問う。
誰が、我らの民を守るのか。誰が、この国の誇りを汚さず導くのか。その責を忘れるな。」
しばしの沈黙ののち、諸侯たちは一斉に頭を垂れた。
その中で、カンタレラ公爵は静かに立ち上がり、退出の許しを請う。
「では、マトシリカの政へ戻らせていただきます。」
「うむ。頼んだぞ、老友よ。」
国王の声に一礼し、公爵は静かに会議室を去る。
その背を見送りながら、グゼレー伯爵がぽつりと呟く。
「……さて、あの老狐が王国に忠を尽くしているのかどうか……。見ものだな。」
会議室に、わずかな緩和の空気が流れる。
しかしその瞬間、扉の向こうから騎士団の号令と足音が響いてきた。
「何事だ……!?」
扉が再び重く開き、入ってきたのは――
「失礼いたします。王命により、第二王子ヴェルセリア殿下、ご臨席です!」
一斉に振り返る貴族たち。
その中に、蒼黒の外套を翻し、静かな歩調で王子が現れる。
彼の後ろには、異様な雰囲気を纏ったもう一人の影があった。
白装束の袖、首にかけられた神紋、禍々しいまでに微笑む男。
イヴアダ教会の最高権威、大司教ザラディオ・アルカルロ。
「……まだ、会議は終わっておりませんようですな?」
冷たい声が、王国の中心に血の匂いをもたらした。