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6 水面揺蕩う深き座にて


――灯生たち一行がサリヴァンへと帰路した同刻。


玉座の間にほど近い王宮・大会議室。

その重厚な扉が、鋼のような軋みを立てて開かれた。


現れたのは、アステッド第三王子。

灰色の軍装には塵がこびりつき、肩から垂れた外套の裾は破れ、血が乾いていた。


彼の姿が現れた瞬間、集まった貴族たちの間に緊張が走る。

凍りついたような沈黙の中、王子は黙したまま会議卓の一席に腰を下ろす。

目は虚空を彷徨い、焦点を結ばない。


会議卓の最上座。静かに腰掛けていた男が、その金の瞳を細めた。

ゴルザスタイン・ランドベルク王。

王国第三十七代君主にして、軍略と理政に長けた国王である。


「……席に着け、アステッド。」


その声音は低く、しかし一切の感情を排した命令だった。

アステッドは黙って頷き、空席に身を沈めた。

王が静かに口を開く。


「戦況の報告を。」


王子は顔を伏せたまま、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。


「……ケルバは、想像以上でした。ミスリルの対獣人戦特化部隊も魔術管理局長のレグノーも王国魔術軍隊長のグランも、成すすべなく……。いやケルバの獣人どもではない。一人の男だ。あの男によって……。」


ざわつきが広がり、それを断ち切るようにグゼレー伯爵が冷ややかに言った。


「……それで、敗北したと。」


白銀の髭を整えた老貴族は、王子の顔を見もせず、卓上の地図に視線を落としていた。


「敵は、想像を超えていた。」


アステッドが低く答える。


「敗北の報せは受け取っていた。問題はその理由だ。獣人国は本当に、魔人族とついに同盟したのか?」


ざわめきが広がる。メディシス侯爵が鼻を鳴らす。


「そんな情報はまだ届いていない!彼らは、“原初の徴”についても……。」


「ほう……」と、メディシス侯爵が皮肉気に唇を歪める。


「まさか、神話を根拠に動くとはな。愚か者どもめ。」


「……笑い事ではない。」


サルタヴァ伯爵が厳しい声で割り込む。

淡い青の軍服を着た若き貴族だ。


「ドカチリチはどうした?」


「……正気を保ててはいない。」


アステッドの答えに、場の空気がさらに重くなる。

すでにベジハイドの領主は事実上不在。

王国の南方を担っていた要石が、音もなく崩れた。


「新たな戦線を築くには、早急に新領主を立てるしかない」


メディシスが言う。


「ドカチリチの子息は?」


「まだ十五。政務には及ばぬ。」


言葉を失った会議室に、国王の声が響く。


「ドカチリチ伯爵の除籍を正式に執り行う。領地ベジハイドは直轄とする。異論は。」


カンタレラ公爵が即座に応じる。


「妥当かと存じます。」


他の貴族たちも渋々ながら頷いた。

王は静かに目を閉じ、次の議題へ移った。


「魔人国への対応策だ。対話の道は残されているか。」


「奴らは牙を剥いた。我らが同盟情報を流した者がいた可能性もある。」


グゼレー伯爵が睨むように言うと、カンタレラが薄く笑った。


「外交都市としての立場をお忘れなく。我がマトシリカは、中立を保つ努力をしてまいりました。」


「努力では国は守れぬ。」


メディシスが吐き捨てる。


「我々には時間がない。帝国と手を組むべきだ」


「ダンタリア帝国か……。」


サルタヴァが眉をひそめる。


ダンタリア帝国。

北方に君臨する巨大国家。

王国とは長年の緊張関係を維持してきたが、今ここで貸しを作れば、帝国の軍を動かすこともできるかもしれない。


「奴らに借りを作れば、代償は我らの主権かもしれん。」


貴族たちの議論が熱を帯びる中、王はゆっくりと立ち上がった。


「……貴様らの懸念は理解する。しかし、我がランドベルク王国が再び敗北することは許されぬ。」


その声に、全員が凍りついた。


「帝国との交渉は継続する。だが主導権は渡さん。

 カンタレラ公爵、貴君にはマトシリカでの交渉を一任する。必要ならば、魔人国との接触も許可する。」


「承知しました。」


カンタレラが深く一礼する。


「諸君。我が王国は今、岐路に立っている。王たる我が問う。

 誰が、我らの民を守るのか。誰が、この国の誇りを汚さず導くのか。その責を忘れるな。」


しばしの沈黙ののち、諸侯たちは一斉に頭を垂れた。

その中で、カンタレラ公爵は静かに立ち上がり、退出の許しを請う。


「では、マトシリカの政へ戻らせていただきます。」


「うむ。頼んだぞ、老友よ。」


国王の声に一礼し、公爵は静かに会議室を去る。


その背を見送りながら、グゼレー伯爵がぽつりと呟く。


「……さて、あの老狐が王国に忠を尽くしているのかどうか……。見ものだな。」


会議室に、わずかな緩和の空気が流れる。

しかしその瞬間、扉の向こうから騎士団の号令と足音が響いてきた。


「何事だ……!?」


扉が再び重く開き、入ってきたのは――


「失礼いたします。王命により、第二王子ヴェルセリア殿下、ご臨席です!」


一斉に振り返る貴族たち。

その中に、蒼黒の外套を翻し、静かな歩調で王子が現れる。


彼の後ろには、異様な雰囲気を纏ったもう一人の影があった。

白装束の袖、首にかけられた神紋、禍々しいまでに微笑む男。


イヴアダ教会の最高権威、大司教ザラディオ・アルカルロ。


「……まだ、会議は終わっておりませんようですな?」


冷たい声が、王国の中心に血の匂いをもたらした。


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