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第14話 そらまどベーカリー

「どうぞ」


蓮の保護者、雪久啓さんのいかにも人の好さそうな笑みに頷くしかできない俺には、パン屋の中には入るしか道は残されていないんだよな。


店先で掲げられる旗が風でなびいていた。


──そらまどベーカリー。


街角のパン屋としては、そこそこ完璧な名前だな。

“そこそこ”と“完璧”は本来両立しなさそうだが、まあ、ネーミングセンスが特別優れているわけでもない男子高校生の感想としては、許される範囲だろうと思いたい。


「おじゃまします」


最初に飛び込んできたのはこんがり焼けた小麦の香り。

それから、ほんのりバター。ふわりと甘いシュガーの香気が鼻をくすぐる。

しかし、棚にはパンがひとつも並んでいない。

あるのは、パンくずとその名残だけである。


この時間じゃ、ほとんど売り切れるか。

人気店なんだな。


「イートインスペース、使っていい?」

「ああ、この時間はほとんど人も来ないから、ゆっくりしていいぞ」


蓮と啓さんが、ほとんど同じ表情で頷きあった。


「奥がイートインスペースになってるんだ」

「二席しかないけどね」


それはまるで、子供のために作られたおままごとセットのような椅子とテーブルだった。

俺がそれに腰を下ろした頃に入口のベルが鳴る。


「柏木さん、こんばんは」

「啓さん。いつものを…」


現れたのは、品の良さそうな年配の紳士。

手にする杖が妙に高級そうに見えるのは気のせいだろうか?

まあ、だからどうという事もないけどな。


「いつもありがとうございます」


蓮も知り合いなのか、小さく手を振って見せる。


「ありがとう、啓さん。じゃあ、また明日…」


”そらまどベーカリー”と書かれたビニール袋を受け取り、柏木さんと呼ばれた老人は店をあとにしていく。一分も経っていない。まるで流れ作業みたいだな。


「えっと、常連さん?」

「そうだよ。この時間ぐらいにいつも来て、塩パンを二つ買っていくんだ」

「塩パンだけ?」

「奥さんの好物なんだって。かれこれ20年、毎日欠かさず見るよ」

「20年!?すごいな。あれ?じゃあ、このお店もかなり長いんだ」

「う~ん。確か開店してから30年ぐらいじゃなかったかな?」

「すごいな。10年続けばいいところなのに。でも、そっか。近くに住んでるのに知らなかった」

「そういうものなんじゃないかな?」


慰められてもな。神岐っ子としてパンに遅れを取るっていうのはなんだか、胸につっかえるんだよ。


なんとなく落胆してみる中、ふと厨房に目を向けると、パンをこねる啓さんの後ろに、赤色に揺らめく影のようなものがくっついていた。


「あれって精霊?」


俺とした事がうっかり口に出してしまった。

恥ずかしいな。


「啓さんは魔法師だからね」

「えっ!そうなの。夜詠者じゃなくて?」

「うん。元戦闘魔法師。封魔夢を結構倒したって話だよ」

「ふ~ん。それで、今はパンを?」

「啓さんいわく、今じゃあ、精霊魔法もパンを焼くしか使い道ないってさ」

「へえ~。蓮の保護者だから、てっきり雪久さんも夜詠者かと…」


だって、魔法師の子供は魔法師になるのが普通っていうのが常識らしいからな。


俺はそのあたり、よく知らないけれど…。


確か、魔力は遺伝する。だから、昔は魔力ある者は魔力ある者で家族になるのが当たり前って感じだったとか?今はその辺り、緩くなってるって話だけど、それでもなんだかんだで魔力がある者同士の婚姻が推奨されているのは変わらないって誰かが言っていた。


「なんだい?その腑に落ちない感じの顔は…」

「いやあ。魔法師と一緒で夜詠者も継承制なのかと思って…」

「うん?」

「ほら、親が魔法師じゃない魔力保有者って、魔法師に弟子入りして、家族から引き離されるってよく言うだろ?」


保護者だけど、苗字が違うのはそういうシリアスな事情があるのかと勘繰ってしまう。


それなのに、当の本人である蓮は俺の心配を知らないで、心底面白そうに肩を震わせて笑いだすだけなのだ。その反応はひどいよ。


「いつの時代の話をしてるんだい?そんなの親世代でも珍しいんじゃないかな?」

「まあ、そっか…」


魔法素養のある者を受け入れる教育機関が整備されて、随分経つもんな。


「僕達はそういうんじゃないよ」

「そう…なんだ。それって深堀してもいいのかな?」


真ん丸な目で見据えられて、思わず背筋が伸びた。


俺の馬鹿。

無神経だったか?


「やっぱり君は、そういう人なんだね」

「なんだよ。それ」

「すごいなって思ってるんだ。大丈夫。シビアな事情とか、ないから安心して」


彼はふっと口元を緩めた。


「父さんは海外にいてね。僕はこっちに残る用があったから困ったなって思ってたんだ。そしたら、啓さんが“じゃあ、うちに来たら?”って誘ってくれたんだよ。なんでも、父さんとは友人なんだって…」

「ふ~ん。友情か。いいね」

「おかげで、パン漬けの日々だけどね」

「いつもパンを持ってるのは雪久さんの影響?」

「それもあるけど、ちょっと違うかな」


全く、相変わらずふわっとしてるな。


蓮との会話は、いつも核心に届かないまま、ぐるぐる回っている気がする。

モヤモヤを振り払うように視線を動かすと、本棚の背表紙が少し揺れていた。


「あっ!本が乱れてる」


ぽつりと漏らした言葉に、蓮がゆったりと立ち上がった。


「本当に目がいいんだね」


倒れていた本を天戸は整理整頓でもするように揃えていく。

ただそれだけのことなのに、空気がすっと澄んでいく気がした。


「今のは?」

「ちょっとした囁…だったのかも。僕には分からないけど」

「“修復”したのか?」

「ただ、本を戻しただけだよ」

「でも蓮、“整えた”よ」

「そうか。君がそう言うなら、きっとそうなんだろうね」


今は無意識に“整えた“のか?


俺の疑問を他所に彼は今も当たり前みたいにそこに溶け込んでいる。


「君がいてよかったよ」

「それは…蓮の方だろ」

「違うよ」


やめてくれ。俺はただの、力もない普通の人間なんだから。


「あのさ」

「うん?」

「雪久さんは知ってるの? 蓮が“夜詠者”だって」

「う~ん。知ってるようでいて、そうじゃないって感じかな」


蓮の言葉はいつも、ちょっとずつ掴めない。

それでも、彼が不思議と“友達”であることは疑いようもないんだよな。


「糸森君。せっかくだから、試作品、食べてもらってもいいかな?」


いつの間にか啓さんが近づいてきて、差し出されたのは緑がかったフォカッチャだった。

ローズマリーの香りに、空腹が刺激される。

だけど、大きな音を立てなかったあたり、俺の腹は偉いと思ったりもしてみたり?


「いいんですか?」

「ああ。試行錯誤の真っ最中なんだけどね」

「じゃあ、いただきます」


手に取った瞬間、駆け巡ったのは…。


「冷たい」


だけど、しっとり、もちっとしている。


「夏限定商品のつもりなんだ」

「アイスみたいですね」

「どうかな?」

「なんだか…」

「うん」

「オリーブオイルの海が見えます」


俺の感想に一瞬、その場の時間が止まった気がした。


「すみません。大口を叩きました」

「いやいや、良いんだ。オリーブオイル、入れすぎたかな」


啓さんは照れくさそうに頭をかいた。


「先は長いね」

「そうだな」


啓さんの背後には、今も静かに精霊が漂っている。


「あの精霊って、パンも作れるんですか?」


蓮の家族の事情にちょっと触れて、ほっこり胸が温まる自分がいる。

それでも、気になるのがパンと精霊関連だったりする俺は少し変なのかもしれないな。

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