「食パンはいつも通り連れて行くとして…フランスパンも必要だろうね。ベーコン無しエピは一応かな。あっ!クロワッサンは忘れては駄目だ。うん、これで準備完了かな」
僕は今夜も焼き上がったパンたちを一つ一つ数えていく。
今回は久しぶりの夜だからね。念入りにしておかなきゃ…。
この瞬間にも暗がりは深まっていく。
僕の仕事もおそらく色濃くなるだろう。
だからこそ、予想通り現れてくれるといいんだけどね。
僕のパン達のためにも。
「行くのか?」
リュックを背負った僕に声をかけてきたのは、啓さんだ。
「まだ起きてたんだ。明日も早いのにいいの?」
「寝静まった家から抜け出す輩がいるからな」
「輩か。まぁ、たしかに良い子とは言えないよね。でも止めないでくれるでしょう?」
「まあ、お前のやることは分かっているからな」
僕はスニーカーの紐をいつもよりきつく結んでおく。
「じゃあ、行ってきます」
「強敵なのか?」
気持ちよく出かけさせてはくれないか。
「その言い方は正確じゃないかな。僕が向き合う相手は戦うべきものじゃないから」
啓さんはしばし無言になった後、小さく頷く。
「ああ…そうだったな。どうも最近忘れっぽくて駄目だ」
「“歳ですから”ってやつですかな?」
「おいおい、俺はまだ50代だぞ。そこは“歪理”のせいだって事にしといてくれよ」
「うーん、それはさすがにね。啓さんが忘れっぽいのはやっぱり“おじさん”だからだよ」
「その悪気のない十代からの“おじさん”呼びが一番堪えるってお前は分かってない!!」
僕は笑って、少しだけ反省したふりをしてみせた。
「お前は本当に、アイツにそっくりだな」
啓さんのトーンが少し緩やかになっていく。
「へぇ~。似てるかな?」
「ああ。佇まいも、声も、服装も…まるであいつと話してるみたいだ」
「服はおさがりだから当然かな?」
「そう言うところも既視感ってやつだな」
「そこは“血筋”ってことで、納得してくださいよ?」
「はいはい…」
僕の保護者は一息ついて、背筋を伸ばした。
「なあ、蓮。俺も一緒に行こうか?」
啓さんの申し出はもちろん嬉しいんだけどね。
けれど、それでも僕は首を横に振る。
「だめだよ。これは僕の仕事だからね」
「だけどもなあ。未成年のお前を真夜中の街に放り込むのは大人としては気が引けるんだよ」
「それ、魔法師協会に言ってあげたほうがいいんじゃないかな?魔法師の労働条件って、けっこうブラックだって噂だし…ねぇ?」
僕は軽くジャンプして、足のバネを確かめた。
「俺の時代よりはマシになったはずなんだがな」
「おっ、出たね。“昔はよかった”系…発言」
「いや逆だ。“昔は酷かった”っていう自虐ネタ」
「おじさんも大変だなぁ」
「お前ほどじゃないさ」
「いいんだよ。僕はすぐ忘れちゃうから」
「俺とこうして話したこともか?」
「さあ、どうだろうね」
「夕方の彼…お前の友達も連れていくのか?」
「今夜は駄目だよ。さすがに危険だから」
僕は風に揺れるそらまどベーカリーのベルを一瞥して、空を見上げた。
「思っていたより早く起きそうだ。ちょっと急いだほうがいいかな」
僕の体は何の気なしにふわりと浮かび上がった。
それは、僕にとっては息を吸うのと同じくらい自然なこと。
なんら、不思議ではない。
それでも魔法が根付くこの街の人たちに状況を説明するのは難しいんだろうね。
魔法という名も演唱も…魔法陣も必要ない。
これが僕の“やり方”なんだってだけなんだから。
少し冷たい風が髪をなびかせる。
すでに遥か下では啓さんが手を振っていた。
「今度こそ行ってきます」
僕は保護者に手を振り返して、視線を前に向けた。
目的地は学園の屋上。
空を駆ける旅はいつだって心を軽くしてくれるけれど、今夜は寄り道をしている暇はなさそうだ。
歪理の起点はやっぱり、魔法棟のプールか。
うん。予想通りだ。
僕は左手に握ったこんがり焼き上げたベーコン無しエピを見つめた。
小さなパンの中に込められているのは、位置、時間、空気、匂い、音。
この世界で必要なすべてが練り込まれている。
それらは、僕を歪みに導くコンパス…整えるべき現実の断片へ確実に導いてくれる鍵だ。
「お願いね」
息を吹きかけるように一言、祈るようにエピに語りかける。
すると、エピは淡く光を灯しながら、ふわりと弾けて散った。
次の瞬間、僕の足元は魔法棟の屋上へと切り替わっていた。
魔法師達なら転移魔法と呼ぶ現象。
でも僕にとっては、それは魔法じゃない。
ただ、“移動できない”という状態を整えてあげただけ…ただ、それだけのこと。
だから、名前なんて必要ないんだよ。
重要なのは、その“整える”という行為だけだから。
――俺は強い。
――誰にも、負けはしない。
「強くて濃いですね。やっぱり、不思議は夜が良く似合う」
歪理の濃度が高まっているのが、はっきりと感じられる。
昼間よりもずっと、鮮明だ。
心の奥底から漏れ出すようなうねりが、夜の空気に混ざって、溶けていく。
「僕にも聞こえますよ。先輩の声」
プールの水面は月光を受けて鈍く輝いていた。
いや、あれは水ではない。凍てついた鏡…氷鏡。
その表層に彼…石房先輩は浮かんでいる。
伏せたままの身体が、ゆっくりと起き上がる。
冷たい、張りつめた静寂。
昼間の彼とは違って、その瞳にはもう、色がなかった。
「先輩。こんばんは」
――お前も俺を、馬鹿にしに来たのか?
先輩の声は空気中に漂う事なく、直接…脳に語りかけてくるようだ。
「いいえ。助けに来ました」
――助けだと?
「はい。石房先輩が本来いるべき場所に、戻れるように」
――嘘をつくな!
先輩は魔法陣を展開し、氷鏡に足をついた。
瞬間、雷の輪が何重にも生まれ、その中心にひとつの影が織りなしていく。
「ミラエル」
雷を纏う人影。それは、先輩の精霊。
「綺麗ですね。大切にされてるんでしょう?」
「うるさい!消えろ!」
ミラエルの動きに合わせて無数の雷が屋上を覆いつくしていく。
けれど、僕は動かない。ただ、留まるだけだ。
「当たらない!?なぜだ!?」
僕を取り囲むように焼け焦げた屋上だけが、異様な風景をつくっていた。
焦る先輩に申し訳なさが募るけれど、こればかりは仕方がない。
石房先輩の魔法は僕を“認識”できていないだけなのだから。
「落ち着いてください。大丈夫ですよ」
「俺は魔法師だ。こんな一般科のやつに魔法が通らないなんて!」
「だから、戦う必要はないんですよ」
剣を抜いた先輩は僕を見据えて襲いかかってくる。
聞く耳を持ってはくれないんですか。残念だな。
歪理特有故か、それとも石房先輩の性格だからなのか。
それでも僕はそれらを軽くかわして、先輩の背後に回り込んだ。
「逃げるな!戦え!」
「僕は戦いませんよ。ただ、整えるだけですから」
その瞬間。足元の氷が砕け、空中に舞い上がった破片が次々と“景色”を映していく。
神岐市の夜景。商店街。碧見原の学舎。
そして、糸森くんの寝室だ。
「ああ…。結局、巻き込む事になっちゃったか」
氷の欠片の向こうでこちらを見ている観測者の姿に先輩は動揺と興奮が混じっていく。
良くも悪くも“観測者”は歪理の興味を引くんだね。
「だとしても…先輩、妙な考えはやめてくださいね」
僕の声は静かだった。
けれど、歪理の鼓動よりも確かに強く、響いた気がした。