「これはまた、生徒指導室案件かしらねぇ~?」
やる気なさげな響きが夜の屋上に溶けていく。
「こんばんは、本堂先生」
屋内への入口である浮かぶ魔法陣の前で腕を組んで立っているのは僕のクラスの担任教師。
これはとりあえず、挨拶かな?
それが“普通”の男子生徒というものだろうから。
「こんな夜中に学園に不法侵入とはね。意外と不良さんだったのかしら?」
「心外ですよ。それを言うなら、先生だって勤務時間は終わっているのでは?」
「大人と子供の違いよ。天戸くん」
「それを言われては、ぐうの音も出ません。でも、どうか大目に見てください。先生がここにいる理由は、僕と同じはずなんですから」
本堂先生は夢の中に落ちていった石房先輩のそばへとゆっくり歩み寄った。
「今朝、君と揉めていた魔法科の生徒よね。歪理に巻き込まれたの?」
「そのようです。“六不思議”を信じて、足を踏み入れてしまったんですよ」
「六不思議か。今回は”凍てつく影送り”だったかしら?」
「違います。”水のないプール”…いや、“もう一人のわたし”だったかな」
「ああ。そう…。知らない間に変わってたのね」
「六不思議にはそんなにバリエーションがあるんですか?知りませんでした」
「世代によって上書きされるだけよ。学園で語られる“ふしぎ”は、過去に起きた歪理の名残。想いの数だけ形を変えていく。それらはどんなに綻びを縫っても、またほどける。まるで、人の記憶みたいにね」
「先生の役目はその“ふしぎ”を見守ることですか?」
「ご明察通り。兆しが見えれば、綻びを結び直すのが仕事。でも、ずっと何も起きてなかったのにね。君が現れてから、何か変わったような気がするわ」
眠たそうな瞳の奥に、わずかな鋭さが灯る。
「それは、僕には何とも…」
「あら、お仲間の私にも内緒?ここ数日、私の仕事を横取りしていたのに…」
「先生は大人ですからお忙しいでしょう?代わりに仕事しただけです。いけませんでしたか?」
「怒ってないわよ。私はサボり魔だもの。君ほど強くもないしね」
「それ、生徒の前で言ってしまっていいんですか?」
「いいの。今は“勤務外”だもの」
「先生はそういう人でしたか。面白いですね」
僕は、ごく自然に唇を緩めた。
世間話をする相手へのささやかな礼儀として。
「普通の生徒にはこんな話しないわよ。でも、君は“夜詠者”でしょう?ああ、でも授業中はちゃんと生徒として扱うからそのつもりで」
「もちろん。それが“普通”の教師ですよ」
「はあ。私は一体、こんな夜中に生徒相手に何を語っているんだか」
「仕方ないですよ。これは“普通”じゃない事態ですから」
「そうよね。力のある魔法師が歪理の宿主になるなんて、前代未聞だもの」
「どんなものにも前例はあるものですよ。石房先輩はただ少し疲れていただけです。その隙間に歪理が潜り込んだだけ…」
「“疲れていた”、ね。歪理は魔力を糧とする。君なら知らないはずないわよね?」
「もちろん」
「歪理は魔力を吸収して育ち、世界を侵す。そして、魔法師は封魔夢に対抗できる唯一の存在。だからこそ、守らなければならない。この世界の守護者がすべてを“知らずに過ごせる”ように。私たち夜詠者は綻びを修復する。それが役目。分かってはいるんだけどな」
本堂先生は、入口の魔法陣にそっと手を置いた。
その瞬間、僕は“第二保健室”へと転移していた。
五番目のベッドには、石房先輩の眠る姿。
「あっ、五番目のベッドですか」
「ああ…。保健室の第五ベッドの不思議は変わってないのね」
「先生もご存じで?」
「生み出すきっかけには私も関わっているから」
「そうでしたか」
「私の前任が守っていた頃には、どの保健室にも五つのベッドが並べられていたのよ。その前任者は不思議に巻き込まれた生徒の避難先として保健室を利用していた。こうして眠る魔法科の生徒みたいにね」
「なるほど。“ふしぎ”に巻き込まれた生徒の記憶、香り、想い。それらの積層が以前あった“第五ベッド”という存在に変化したわけですか」
椅子に腰を下ろし、石房先輩の額の汗を拭いながら、本堂先生は静かに表情を曇らせる。
「だけど、それももはや過去。本当に最近はずっと平和だったのに…。だけど、封魔夢の出現率も上がっていると聞くし、やっぱり何かが、起こる前触れなのかしら?」
「そうですね。だから、僕はここに来ました」
「魔法師を守るために?」
「いいえ。僕が守るのは、あなたたち、夜詠者です」
「君だって、こちら側の人間でしょう?」
「はい。ですが僕は“魔法師のために修復する”あなた方を支える存在でもありたいんですよ」
「まさか、生徒に守られるって言われる日が来るとは思わなかったわ」
「嫌でしたか?」
本堂先生は、ふっと笑って息を吐いた。
「青春の1ページに加えられた気分よ。でも、私はいいわ。この役目にそれほど熱心じゃないから。他の子たちを守ってあげて」
「もちろん、皆さん守りますよ。そのためにもご挨拶したいんですけどね。なかなか会えなくて。先生はご存じですか?」
「何人かはこの学園にいるわよ。そのうち会えるでしょう。そろそろ君の存在に気づく頃でしょうから」
「ええ~。僕も商店街で縫い目を見つけましたよ。あれは先生ですか?」
「だから、私は学園の中だけが管轄なの。それ以外は手を出さないわ」
「分かりやすい方ですね。この街にいる夜詠者で最初にお会いしたのが先生でよかったですよ。他の方たちに会うのも楽しみになります」
僕たちを取り巻く空気が、ふっと軽くなった。
「そろそろ、整合性の中に組み込まれていくわね」
「はい。ここでの先生との会話も、“なかったこと”になります」
「ねえ?」
「はい」
「どうせ忘れるって分かってるんだけれどね。君の隣にいつもいる糸森くんは…。彼はそうなの?」
「彼は観測者です」
「やっぱりね。“かの者…定まらぬ理の傍らに在り…見て記すも…声を持たず…ゆえに触れず…ただして観る“か」
「夜詠者の間で語り継がれる一節ですか」
「当然、君も知ってるのよね。そして、観測者についての言葉。“彼”が君の隣にいるのは偶然?」
「糸森君は友人ですよ」
「もちろん、そうでしょうとも。だって、君達は学生だもの。それが“常識”のはず。まったく、夜詠者を守ると自称する貴方に観測者と来るか。神岐市で、いったい何が起きようとしているの?」
「心配しないでください、先生」
僕は、“すべて”を整えるために来たんですから。
「フランスパン、食べます?」
「夜中なんだけど?」
「パンは、いつ食べても美味しいですよ」
「じゃあ、紅茶でも入れようかしら」
本堂先生の提案に、僕はフランスパンを差し出したのであった。
とりあえず、糸森くん。
今夜はきっと、よく眠れると思うよ。