「……これは、ないだろ……」
カイン・アスベルトは空中を落下しながら、心の底からそう思った。
全身を冷たい風が切り裂き、目の前に迫る地面が“死”の確実さを告げてくる。
走馬灯のように蘇る、今朝の出来事――
──ミーアさんに正式な弟子入りを頼み、
──嫌そうにため息を吐きながらも、ラグナがそれを了承して、
──その十数分後に、自分は崖から突き落とされた。
(いやいや……もうちょっとこう……段階的に……!)
あの人は師匠失格だと思う。それどころか人としてもどうかしている。鬼か何かじゃないかと思う。
そんな愚痴すら、激突の衝撃とともに吹き飛んだ。
「ぐっ……!」
咄嗟に受け身を取ったものの、全身に広がる鈍い痛み。
呼吸が浅くなる。肺が押し潰されたような感覚――だが、それすら一瞬で吹き飛ぶ。
――殺気。
まるで濁流のように、足元から襲いかかってくる悪意の奔流。
見回すと、そこは獣と魔物の巣窟。目に映るのは、赤く光る無数の瞳。
「……ウソだろ……?」
思考するより早く、体が剣を構えていた。
黒狼が一体、獰猛な唸りをあげて飛びかかってくる。
本能だけで反応し、斬り裂く――その直後、背後から来たゴブリンの首も、反射的に跳ね飛ばした。
「な、にこれ……! こんな数……!」
足を止めれば、囲まれて終わり。
剣を止めれば、死ぬ。
呼吸するたびに、地獄の熱気が肺を焦がすように入り込んでくる。
一匹一匹は、確かに弱い。E級だ。
けれど、数が違う。量が、常識を遥かに超えている。
「ラグナさん……おかしいでしょ、これ……!」
泣き言すら、剣戟の音に掻き消される。
次々に飛びかかってくる魔物たちを、必死に斬り、避け、押し返す。
何度転び、何度斬られ、何度呻いたか。
だが、それでも、止まることだけはしなかった。
(……これが……地獄の修行……!)
止まれば死ぬという命を犯すような緊張感で手を動かし続ける。
それでも、疲労が少しずつ体を蝕む。終わりが見えない絶望感に思考が鈍くなる。
泣き言をこぼしそうになる心に鞭を打ち続け動き続けた。
数十分後、魔物の群れが少しずつ少なくなってきた。
「これで終わりか?!」
そう思った次の瞬間――
突如、周囲の魔物たちが動きを止めた。
緊張が張り詰めた空気の中、彼らが一斉に“奥”を向く。
「……え?」
その先から、信じられない光景が現れた。
巨大な牙を持つオークジェネラルが、他の魔物を喰いちぎりながら現れる。
影の中からにじみ出るように、暗黒狼がこちらを見据え、唸る。
その後ろには、オーガ、バーサルボア、影魔、そして名も知らぬ異形の影――
どれもC級、単独で討伐任務が組まれるクラスの化け物たち。
(……冗談、だろ?)
ゾッとするほどの格の違い。
戦場が、一瞬で死の試練へと変貌した。
「これ、マジで死ぬって……!」
足がすくむ。心が凍る。
――――
オークジェネラルの棍棒が大地を砕く。
土砂が舞い、耳をつんざく衝撃音が響く。
「くっ……!」
カインは紙一重でその一撃を避け、転がるように地を這った。
剣を支えに無理やり体を起こすが、膝は震え、呼吸は荒れ、視界が霞んでいる。
体力は、もう限界だった。
──それでも死んでいない理由は、たった一つ。
魔物たちが、互いに殺し合っているからだ。
「……ハァ、ハァ……俺なんて……本当にただのネズミじゃないか……」
周囲は戦場ではなく、もはや魔獣の闘技場。
オークジェネラルが暗黒狼を叩き潰したと思ったら、影から出てきた他の暗黒狼に首を食いちぎられる。そしてその暗黒狼の背を影魔が影の刃で貫く。
C級の魔物たちが、獣性のままに殺し合いを繰り広げるその足元――
カインは、血まみれになりながらも必死に逃げ回っていた。
(見逃されてる……そう思うしかない……)
無力感に苛まれながらも、生への執着だけが足を動かす。
「ぐっ……!」
影魔の刃が腕をかすめ、鮮血が宙に舞った。
痛みを振り切り、他の魔物の死角へと身を滑らせる。
(止まるな……止まったら、終わる……!)
その時だった。
地響きとともに、轟音が訓練場全体を揺るがす。
「……え?」
爆発音。耳が一瞬、何も聞こえなくなった。
砂塵が辺りを覆い、爆心地を飲み込んでゆく。
(まさか……ラグナさん……?)
一瞬、希望の火が胸にともる。
だが――その想像は、打ち砕かれた。
そこに立っていたのは、少女だった。
爆心地の中心で、顔を伏せ、ひとり棒立ちになっている。
服は灰に染まり、長い髪が無風の中で揺れていた。
「な、に……?」
思考が追いつかない。
だが魔物たちは、彼女を“危険”と判断したようだった。
一斉に、殺意が少女へと向けられる。
「──危ない!!」
考えるより先に、体が動いていた。
オークジェネラルの頭上へ、聖属性を帯びた剣を投擲。
瞬間、魔力を全開放し、剣へと一気に飛び乗る。
「ッ──せいやああああああッ!!」
聖なる光が尾を引き、閃光の軌跡が夜のような戦場に一筋の希望を描く。
投げつけた剣を魔力で蹴り飛ばすと、それはまるで流星のように加速し、
オークジェネラルの眉間を穿ち、頭蓋を貫通して爆ぜる。
──魔物、絶命。
死体が崩れる前に地を蹴って跳躍し、剣を引き抜きながら着地。
少女の前に、背を向けて立つ。
(ああ、バカだ……自分でもわかってる……)
恐怖に震えながらも、カインは剣を握る手を強く握り締めた。
「……下がってろ。ここから先は、僕の戦場だ」
(立て。カイン・アスベルト……!)
(お前は、勇者だろ……!?)
仲間を守れなかった。
尊敬する師匠すら、守れなかった。
だから、ここで逃げたら、何もかもが終わる。
「来いよ……!全部、斬ってやる!!」
叫びは、恐怖を上書きする覚悟の印。
C級魔物の波が、彼の命を刈り取るように襲いかかる――
『空間魔法―――虚空』
目を閉じて開くそんな、そんな本当に刹那で目の前の魔物が全て消え去っていた。