「……ったく、こりゃ一旦引くしかねぇな」
渓谷の奥で、ラグナは軽く肩をすくめていた。
纏う魔力が薄れ、万装珠玉に注ぎ込んだ魔力の容量も結構溜まってきた。
「調子に乗って魔物ぶっ飛ばしてたら、奴ら……束になってきやがったからなぁ。反則だろ、あれは」
目の前の風景には魔物の死骸と、瓦礫のようにえぐれた大地。
調子にのって魔物を倒しまくっていたので魔物に目をつけられ狙われたのだ。ラグナにとっては、勝てる勝負より生き延びる勝負の方が重要だ。
「んで、撤退と──」
ラグナは軽やかに飛び退きながら、来た道を戻る。
不思議なことに、帰り道にはほとんど魔物の気配がなかった。
辺りは静寂に包まれ、風のざわめきだけが耳に届く。
「……は?なんか変だな。魔物がいねぇ……?」
瞬間、胸騒ぎが走った。
クソガキ――カインを蹴り落とした、あの渓谷の底。あそこはE級くらいの魔物しかいなかったが、俺の戦いで逃げ出した魔物がいたらC級以上の魔物がクソガキの方にいったことになる。
C級以上の魔物がうようよしていたあの死地に、奴が生き残っている可能性は限りなく低い。
(まさか……死んでんのか?)
一抹の罪悪感と、ギルド長に説教される未来が頭をよぎる。
いや、それより──
ミーアの殺気じみた冷笑の方が怖い。
「うわ、やべぇな……」
そう思いながら崖の入り口付近まで戻ってきたラグナは、ある異常に気づく。
魔物の死骸が、あまりにも少なすぎた。
「……は?」
C級魔物が何体もいるか、もしくはそいつらが他の魔物を倒した跡があるかと思ったら死体が一切落ちておらず綺麗に地面が見えている。
しかも暴れた痕跡もなく――まるでこの場所だけ綺麗に世界から切り取られたかのように異質な光景が広がっていた。
「まさか、クソガキが……?」
信じられない思いで、慎重に足を進めていく。
(あの程度の腕で、これを……?)
そして──見えた。
あの渓谷の中央、崖下のわずかな平地に、カインが座っていた。
その隣には、一人の少女。
ラグナは一瞬、カインが保護者にでもなったのかと勘違いしそうになる。
が、すぐにそれは違うと理解した。
カインの顔。
その表情は、まるで“猛獣の檻の前に立たされた子供”のように、恐怖で震えていた。
「……なんだ、あれ」
ラグナの脳裏に、警鐘のような直感が鳴り響く。
あの少女の存在が、ただの人間ではないと。
その空間だけが、まるで異質な気配に染まっていた。
(クソガキ……まさか、何か“ヤバいもの”に手を出したんじゃねぇだろうな……?)
ワクワクしながらも、ぞわりと背筋が冷える。
そしてラグナは、慎重に足を進めた。
――――
「おい、クソガキ。何があった?」
樹海の地獄みたいな渓谷を抜け、ようやく見つけたその姿に俺はすぐさま問い詰めた。
だが、返ってきたのは――
「ラグナさんが、僕を蹴り飛ばしてからのことですか?」
はぁ? さっきまで怯えてガクガク震えてたのに、俺の顔を見た瞬間この態度。
何様のつもりだこのガキ。
「そうだな。お前が惨めに落ちていったあとのことだ」
「……惨め。はぁ、まあ確かに必死でしたけど。魔物の群れから逃げ続けていたら、突然“あの子”が現れて……気づいたら魔物が消え去っていました」
そこで一瞬、カインの言葉が詰まる。
その目はまだ何かを整理できていないようだった。
「“魔物を消し飛ばした”って、どういう意味だ?」
俺の問いに、カインは首を振るようにして答える。
「分かりません。ただ、あたり一面にいたはずの魔物が、まるで――まるで存在ごと消し飛んだんです。音も、気配もなく……」
まるで風が通り抜けたあとのように。
……クソガキが見間違うはずはない。腐っても、コイツは勇者。
その目が見た現象は、信じる価値がある。
だとしたら――
「貴方がこの子の師匠ですか?」
不意に背後から、凛とした少女の声。
俺とカインの会話を遮るように現れた“彼女”は、相変わらず不思議な空気を纏っていた。
あの爆発の中心にいた、謎だらけの少女。
「……あぁ、そうだな。一応、俺がコイツの師匠だ。内のクソガキを救ってくれてありがとう」
俺がそう応じると、少女は微笑んだ。
「この子、強いですね。私がいなくてもきっと生き延びていた気がします。たくましい子です」
……ほぉん。
あのクソガキが、そこまで評価されるとは。
魔物に追い詰められてたっていうより、生き残ってたって表現の方が正しいのかもな。
ゴキブリ並みにしぶといってのは、あながち間違いじゃなかったらしい。
「……ここで話してもなんだし、一度ゼラストラに戻りませんか?」
カインの提案に、俺は一つ頷いた。
あの少女――何者なんだろう?だがそれ以上に、あの力。
このままこの渓谷に置いておける存在じゃない。
「仕方ねぇ、帰るぞ。──君の名前は?」
「私はリシェルよ」
「一旦ゼラストラに帰ろうと思うんだけど一緒にくるかい?」
俺が尋ねると少女はコクリと頷いた。
こうして俺たちは、ゼラストラに向けて走り出した。