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第55話 混沌なる狂宴 その8

「……いったい、何が起きてやがる……」


 その言葉に、意味はなかった。ただ唇が勝手に震え、喉がかすれた音を漏らしただけだった。


 グランツは、ギルド前の広場に立ち尽くしていた。


 焼けた風。上空から降り注ぐ光の粒。その光に触れた人々が、次々と――幽鬼へと変貌していく。


 信じられない。だが、現実は容赦なく彼の前に立ちはだかっていた。


(……またか)


 胸の奥が、冷たく軋んだ。あの地獄――大遠征エピゴノイの悪夢が蘇る。


 あの時もそうだった。勝てるはずのダンジョン攻略。慎重に編成された討伐隊。だが、敵は進化していた。誰にも予測できなかった異変だった。仲間たちは次々に倒れていき、血の海と悲鳴の渦が彼を呑み込んだ。


 グランツは、立っていることしかできなかった。


 剣を振ることも、誰かを庇うことも、ただ、ただ、その場で凍りついていた。


 命をつなぎとめてくれたのは――クロウ様だった。自ら盾となり、討伐隊の最後尾を守ってくれた。自分の命と引き換えに。


(俺は、生き延びた。ただ、それだけだ)


 その無力感が、彼の心を蝕んだ。酒に溺れ、冒険者としての矜持も、誇りも、すべて霧の中に沈めた。


 だから今――この地獄のような光景を前にしても、足が、動かない。


 視界の端で、誰かが叫ぶ。誰かが倒れる。誰かが泣いている。


 それでも、彼は立ちすくんだままだ。


(俺は、また同じ過ちを繰り返すのか……?)


 その時、響いたのはミーアの声だった。


「非常事態緊急依頼です! 報酬はすべてゼラストラギルドが負担します!どうか……どうかゼラストラの人々を救ってください!」


 震える声で、それでも力強く。誰よりも弱く、誰よりも無力なはずの彼女が、懸命に声を上げていた。


(ミーアは……前を向いているのに……俺は……)


 周囲の冒険者たちが次々に動き始める。強くない者も、手が震えている者も、それでも、恐怖を押し殺して駆け出していく。


「……っ!」


 膝が笑う。腰が抜けそうになる。それでも、グランツは一歩を踏み出そうとする。けれど――動けなかった。


 その時だった。


 ギルドの塔を、誰かが駆け上がっていく姿が視界の端に映った。


「あれは……あのガキか」


 数週間前、冒険者試験に現れた少年。十歳ほどの小さな体で、しかし底知れぬ凄みを纏っていた。ミーアが躊躇していたその少年を、グランツは試験へと推薦した。


 彼は、あっさりと合格し、いきなり――B級冒険者にまで駆け上がった。


 空に金属を創り、幽鬼を一瞬で消し飛ばすその姿は、まる物語の中の英雄のようだ。


(才能、ってのは残酷だな)


 己の無力をまざまざと見せつけられる。あれこそが、本物の選ばれた者だ。自分とは、違う。


(だから、任せてしまえばいい……)


 そう、自分はただ避難誘導に徹すればいい。誰かが戦ってくれるのなら、それでいいじゃないか。


 ――そう言い訳を作った瞬間だった。


「おじさん……助けて……!」


 その声に、時間が止まった。


 目をやると、幼い子どもが、幽鬼に追われていた。瞳は涙で濡れ、足元は瓦礫にとられて動けない。


 その光景は、あの遠征の日に重なった。


(……また、何もできずに、見殺しにするのか?)


(……また、逃げるのか?)


(……また、俺は……!)


拳闘術雷破!」


 意識よりも早く、身体が動いていた。


 瞬歩で距離を詰め、雷鳴のごとき拳が幽鬼の頭部を叩き潰す。風が裂け、肉が砕ける音が響いた。


 手に抱え込むように飛び散る血肉から守った子供が俺をみあげて嬉しそうに目を輝かせる。


「助けてくれて……ありがとう!」


 子どもの声に、ようやくグランツは自分が何をしたのかを理解する。


(そうか……俺は……)


「気にするな。それが、冒険者の仕事だ」


 口が、自然にそう言っていた。


 震える手が、ようやく拳を握る。


(怖い。足も震える。逃げたい。だけど……)


(それでも、この命に意味を与えられる場所があるとしたら――ここだ)


 その時、魔法具・拡声響音器スピーカーから声が響いた。


『SS級冒険者夢幻ノ深淵リシェル・アルテミシアが冒険者各員に通達します。非常事態のためこの場で一番ランクが高い私が指揮をします。上空の龍種は私が討伐します。他の冒険者は逃げ遅れた人々をゼラストラ外まで誘導してそのまま避難して下さい。ゼラストラの幽鬼はラグナ・オラトリアが討伐します。彼が好きに動けるように早めの避難をお願いします。』


 グランツは笑った。


 悔しさと、情けなさと、少しの誇りが混じった、歪な笑みだった。


(あのガキはもう、俺らの遥か先を走ってる。手の届かない場所に行っちまった)


(でも……それでも、俺には俺の役目がある)


 拳を握り直し、もう一度前を見据える。


「逃げてるだけの俺とはお別れだ。」


 叫ぶ子ども、助けを求める声、焼け落ちそうな瓦礫の下の人々。


 それらすべてに、グランツは今度こそ立ち向かう。


「俺は冒険者だ。たとえ足が震えていても、心が折れそうでも、それでも立つ。誰かを守るために!」


 彼は走り出した。


 かつての自分を置き去りにして。


 クロウ様に託された命に、ようやく意味を見出すために。


 誰かのために立ち、誰かのために拳を振るう。


 それが、グランツという男の冒険の再始動だった。


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