そこは、ただ白いだけの空間だった。
どこまでも濃い霧が漂い、輪郭すらぼやけた視界の中――
倒れ伏した五人の男女。
その傍らで、膝を抱えて座り込む、ひとりの子供がいた。
「ここは……? 僕は、何をしていたんだ?」
声に出しても、答えは返ってこない。
ただ、頭の奥で――
『クソガキ、目を覚ましたか』
鋭く、重い声が、鼓膜を揺らした。
その瞬間、響いた声とともに、濁っていた記憶が洪水のように押し寄せる。
「……ああ、そうだ。僕が……シャルノバの手伝いなんて……っ!」
ゼラストラの空から光の柱が降りてきて人々を化け物へと変貌させた。あの地獄のような光景が頭に浮かぶ。
自分の手で、全てを壊してしまった、取り返しのつかない罪。
胃の底から込み上げる吐き気に、思わず口を押さえ、えづく。
膝は震え、視界は白くチカチカと揺らぎ、 無意識に口を開き、舌を噛み切りそうになる。
『おい、クソガキ、何してんだ!!』
また、あの声が叩きつけられる。
問いに応えるのではなく、口から罪悪感が溢れ出たかのように言葉がぽろぽろとこぼれる。
「僕は……取り返しの、つかないことを……勇者なのに……」
『だから死のうとしたのか? はっ、笑わせるな。それは贖罪でもなんでもない。ただの――逃げだ』
いつも、いつも、この人の言葉は僕の中に土足で入ってきて、僕の心を抉っていく。
そんな言葉にいつも僕は自分を守ろうと必死に言い訳を口から紡ぐ。そんな自分が本当に嫌いだった。
その時だった。
霧の中から、ふわりと現れたのはクロウ様だった。
クロウ様が――
昔のまま、優しい笑みを湛えて僕に目線を合わせるかのように屈む。
『カイン、大丈夫だよ。すべて、私に任せなさい――さあ、この手を取って』
甘い囁きに、無意識に手を伸ばす。
けれど。
『クソガキ、いい加減にしろ』
また、あの声が鋭く割り込んだ。
『いつまで現実から目を背けているんだ?』
「だって……だって……!」
必死に言い訳を探しても、言葉は喉で千切れる。
図星を突かれた心は、ぐちゃぐちゃにひしゃげて。
『もう一度言うぞクソガキ。現実から目を逸らすな。
お前はいつもそうだ。
誰かの為と言ってやっているのは自分が皆に認められたいからという自己承認欲求を満たすだけの偽善だ。』
ぐさり、と。
痛かった。
醜い自分を、これ以上なく抉り出されるのは、たまらなく痛かった。
「そうですよ!!それの、何が悪いんですか?!」
反論することも出来ずに怒りにまかせて、叫ぶ。
けれど。
『――悪くねぇよ』
「えっ……?」
予想もしなかった返答に、息が詰まる。
『人間なんてみんな、自分が一番可愛いもんだ。誰かを救ってる奴だって、結局、誰かを救ってる自分が好きなだけだ。この世に100%誰かの為に動いている奴はいない。
お前が憧れてるクロウ様だって、同じだろう』
吐き捨てるようなその言葉は、皮肉で満ちているのに。
なぜか、否定することができなかった。
『問題は――自覚だ。己を偽るな。理想に溺れるな。そうしないと、やがて見返りを求めるようになる。そして勝手に裏切られたと嘆いて、しょーもなく闇堕ちをするだけだ。』
ズシリと重い言葉が、心の奥に突き刺さる。
『現実を受け止めろ、自分のために頑張れ。そういう奴は誰かの為にも何か出来るようになる。』
その強く、真っ直ぐな声に――
いつしか、僕の心は引き寄せられていた。
「でも……裏切られたら、どうすればいい……?」
『決まってる。裏切られたら――笑顔で、ぶっ殺せ』
あまりにぶっきらぼうな答えに、思わず引きつっていた顔が、ふっと緩んだ。
『理想を持つなとは言わねぇ。だが、まずは現実を見ろ。そして、己の中に、確かな芯を作れ。勇者だから、じゃない。お前自身の意志を――お前自身の本心を、貫け』
真正面からぶつけられる問いかけ。
『――お前が、本当に欲しいものはなんだ?』
頭が、真っ白になる。
でも、それでも。
今、初めて。
自分自身の心に、耳を傾けた。
(僕が、求めていたもの――)
思い返すと出てくるのは満たされない毎日だった。
僕は物心ついた時には、両親はいなかった。教会に拾われ、勇者に選ばれた。
そして、勇者として生きることを、義務付けられた。
どれだけ頑張っても、周囲は言う。
「さすが勇者様だ」
「勇者様はすごい」
でも。
俺の名前は、勇者様なんかじゃない。
俺の名前は――カイン・アスベルトだ。
誰も、カイン・アスベルトを見てはくれなかった。
ただ、勇者の肩書きの裏に隠れた、俺自身を――
本当は、誰かに見つけてほしかった。
「僕は――」
叫ぶように、僕は声を上げた。
「僕は、皆に認められたい! 勇者としてじゃない!
カイン・アスベルトとして、認められたいんだ!!」
その瞬間、白い霧が――
あの甘く囁いていたクロウ様の幻影を――
すべて、跡形もなく吹き飛ばした。