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第63話 混沌なる狂宴 その16

 連れて行かれた先は、地の底に穿たれたような広間だった。  

 天井は低く、空気は濁り、吐き気を催すほどに湿っていた。  

 壁に等間隔で打ち込まれた松明がかろうじて光を放っていたが、それすらも頼りなく、まるで空間そのものが闇の中に沈み込んでいるかのようだった。


 だが、その中央に描かれたそれだけは――異質だった。


 地面に刻まれている魔法陣は、地下という場にまるでそぐわないほどに精密で巨大だった。  

 ただの線や模様ではない。そこに込められているのは、呪いにも等しい禍々しい意図。  

 見ているだけで、肌が粟立ち、胃の奥がきりきりと痛む。



 引きずられるように、その魔法陣の中心――祭壇のような場所に連れてこられる。  

 鎖の音が耳に刺さるたびに、心臓が締め上げられるような緊張に襲われた。


 ガチャン、と重い音を立てて、鎖が足元に固定される。  

 抵抗する術はなく、ただそこで何かを待たされる。  

 ……否、待たされてなどいなかった。


「……ッ」


 男たちが陣を囲むように並び、静かに詠唱を始めた。  

 その声は呪いのように冷たく、どこか人間の発する言葉とは思えないものだった。


 そして――


「っ……あが、がぁああッ!!」


 魔法陣が赤黒く脈動し、次の瞬間、地の底から這い上がってきたかのような魔力が、僕の体へと流れ込んできた。


 焼け爛れるような熱。  

 凍てつくような冷気。  

 全てが肉体と精神を貫通していく。


 痛い。痛い。痛い。  

 それはもはや、痛覚という枠組みすら超えていた。  

 細胞一つ一つが悲鳴を上げて崩壊していくような、終わりのない地獄。


「が、あ、あ……あ゛あああああああああああああああッ!!!」


 潰れた喉から絞り出された叫びは、自分の声だとは思えなかった。  

 すでに声帯は裂け、喉は血で濡れていた。  

 それでも、術式は止まらない。誰一人として止めようとはしない。


 全身が痙攣し、意識が引き裂かれる。


(や……だ……やめ……やめて……!!)


 願いすら、届かない。  

 この空間は、祈りも、慈悲も、存在しない。


 無数の詠唱が折り重なり、呪詛となって僕を内側から蝕み続ける。  

 全てが壊れてしまう――  

 自分という存在そのものが、解体されていく。


「っ……!」


 限界は、突然やってきた。


 視界が白く霞み、鼓膜を焼くような耳鳴りが響いたかと思えば、身体の感覚が一気に遠のいていった。


 ――そして、僕の意識は、闇に堕ちた。



 ――――



 目を開けた瞬間、感じたのは肌にまとわりつくような冷たい空気と、手首に食い込む鉄鎖の重みだった。  

 まだ、牢の中だ――そう理解するのに時間はかからなかった。


 だけど、それ以上に強く意識を引いたのは、すぐ隣から感じた人の気配。  

 かすかな息づかいと、ほのかに漂う薬草のような香り。  

 その方向に首を向けると、か細い身体を丸めるようにして佇む子供の姿があった。


 ――いや、よく見れば、彼女は“女の子”だった。


 頬はこけ、骨が浮かび上がるほどに痩せ細った体躯。  

 それでも、その胸元にはかすかに膨らみがあり、やわらかさを帯びた声と表情が、それをはっきりと示していた。


「アル、大丈夫だった?」


 その声に、胸の奥がきゅうっと締めつけられる。  

 僕じゃない、これは――この身体の“持ち主”の感情だ。  

 その子を見た瞬間、心が震えた。  

 名前を聞くまでもなく、彼女は“特別”なのだと理解できた。


「大丈夫だよ、アナ。君が隣にいてくれれば、どんな痛みだって……へっちゃらだよ。」


 口をついて出たのは、温かく、優しい言葉だった。  

 痛みも、苦しみも、絶望すらも薄れてしまうようなぬくもり。  

 たった一つの小さな牢屋の中で育まれた、確かな絆。


 アナと一緒に話した時間は、何よりも輝いていた。


 周りの大人の話を盗み聞きしたことだから実際に見たことはないのだが、


 土の匂いがする風、青い空、焼きたてのパンの香り。  

 光がまぶしすぎて目を細めてしまうほどの朝。  

 触れたこともないものばかりなのに、なぜか胸が高鳴った。


「絶対、出ようね」  

「出たら、いっぱい食べよう」  

「毎日笑って過ごしたい」


 そんな夢物語のような未来を、まるで本当に叶うものだと信じて話していた。  

 ……だけど、その夢に終わりの合図が訪れたのは、あまりにも唐突だった。


 ギィィ――と軋む鉄の扉の向こうから、無遠慮な足音が近づいてきた。  

 見慣れた黒尽くめの男が現れ、扉を開け放つと、感情のない声で告げた。


「166番、今日は大事な実験だ。しっかり頑張れよ」


 一瞬、思考が止まった。


 ――166番?


 その番号は、隣にいるアナのことを指していた。  

 彼女が呼ばれたということは……あの地獄へ、彼女が行くということ。


「なんてったって、“シャルノバ様”が見に来てくださるのだからな」


 その名を聞いた瞬間、背中に冷たいものが走る。  

 頭が真っ白になった。


(シャルノバ……やっぱり……!)


 やはりこの夢はただの過去ではない。  

 ここには、シャルノバの痕跡がある。  

 そして、この子――アルと呼ばれたこの子の記憶こそが、その鍵を握っているのだ。


 だがそれは、すなわち、アナの身に取り返しのつかないことが起ころうとしているということでもあった。


(……止めなきゃ。何としてでも……!)


 揺れる視界の中、僕は鎖を引いた。  

 痛みに顔をしかめながらも、ただ一つの願いだけを胸に――  




 あれ?これって誰の感情だ?



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