翌日、いつもの魔力回路の構築ルーティンを終わらせたアレクセイは、昨日作った背嚢を背負って家を出た。
向かうのはゴルラヴェツの麓に広がる樹林、ストリェチェヴォ村と接する南端の一部、狩人たちが通るように多少切り拓き整えられた道である。
村を囲うように設置されている木の柵の切れ目の前に立っていたのは、リュドミーラであった。
「アリョーシュカ❤ 遅い❤」
「ミーラ」
「ミーラじゃないの、リューダ❤」
普段着ではなく極力肌の露出を抑えた服装、邪魔にならないよう引っ詰められた髪、背負われた小さなカバン。
その姿はいかにも森に入ろうという意思を表していた。
「どこかにおでかけ?」
「わたしも一緒に行くの❤」
「それは僕らが決めることじゃないよ」
とぼけて聞いてみたところで、明確な回答が返ってきただけであった。
しかしアレクセイは冷静に指摘する。
「知ってるだろう、子どもは大人に許可を貰わないと森に入れないんだよ?」
「アリョーシュカがいるから大丈夫❤」
「僕が怒られちゃうよ」
その後もやり取りをしたが、結局リュドミーラは諦める様子を見せず、かといってこのまま帰るのも嫌だったアレクセイが折れた。
「付いてくるのはわかったけど、ちゃんと僕の言うこと聞くんだよ」
「うん❤❤❤❤」
そういってアレクセイの腕を取ったリュドミーラは、猫のように顔を擦り付けるのであった。
森に入って少し歩いたところ。
既に村の中とは空気が違うように感じる。
明らかに濃いにおいを嗅ぎつつ、木の根元などに生える薬草などを観察しながら進む。
「それなあに❤」
「これはズヴェリカ、この葉っぱは痛み止めや止血に効果のある薬草だよ」
アレクセイが眺める、大きな木の根本に生える低木を指してリュドミーラが尋ねる。
「こっちのお花は❤」
「それはミラヴァ、気持ちを落ち着けてよく眠れるようになるんだよ」
別のところにある淡いピンクの花を指してリュドミーラが尋ねる。
「これ変なにおーい❤」
「それはヴァルチャトカだね。動物避けとか消毒に使えるから、わざと植えてるんだろうね」
あちこちをちょろちょろしつつ、あれこれと尋ねるリュドミーラに、淀みなく答えるアレクセイ。
リュドミーラも落ち着きはないが、勝手に触らないという約束を守って見るだけに留めている。
「さすがにスネジョカはないか」
スネジョカは雪解け直後に咲く小花で、冷却・解熱作用があり発熱時に煎じて飲まれることが多い。
冬も終わり、初春といえる気候の現在では見ることが叶わないだろう。
峻厳なるゴルラヴェツに踏み入り、万年雪の境目を探せばいくらでも目にすることはできるだろうが、そこまでの立ち入り許可は出ていない。
そうしてあれこれと観察しながら進むアレクセイと、何が楽しいのかそのまわりをうろちょろしながら付いてくるリュドミーラのふたりは、春先の森をゆっくりと進んでいく。
アレクセイはややザラついた紙に色々とスケッチをしている。
この時代、植物紙も鉛筆も当たり前に流通している。
この辺境と呼んで差し支えないストリェチェヴォにまで届くのは、そこまで洗練されていない──品質の低いものではあったが、十分実用に耐え得るものであった。
アレクセイからすれば、前世の筆記具と比べて格段に使いやすい優れた製品である。
そして歩くことしばし。
日が天に登るより少し前に、森の中を流れる小川にたどり着いた。
森は開け、足元はゴツゴツとした石が多くなる。
冷たい川の水に冷やされた微風が、ここまで歩いてきて少し火照った頬を撫でる。
「ふう❤」
川辺に置かれた大きめの倒木──村の狩人たちが椅子代わりに使用する──に腰を下ろして、リュドミーラが息を吐く。
行きつ止まりつで、時間の割に大した距離を歩いたわけではなかったが、一般的な幼女であるリュドミーラには少し大変な行程だったのかもしれない。
その横に腰を下ろして、背嚢をガサゴソしだすアレクセイ。
こちらは異常に鍛えている少年なので大して疲れている風でもない。
「ちょっと早いけどお昼にしよっか」
「うん❤❤❤❤」
この辺りでは昼食を食べる習慣はあまりないが、まったく食べないというわけでもないし、これはあくまでも冒険者として活動するための訓練であるので、食事を用意し食べて帰ることもカリキュラムに含まれているのである。
アレクセイがまず取り出したのは、五徳と小さな鍋。
それを仮設ベンチ──彼らが腰掛ける倒木──の前にある仮設のかまど──狩人たちが使った跡であろう石を組んだだけのもの──に設置していく。
薪はここにたどり着くまでに回収していた枯れ枝を使う。
本来であれば着火剤になるようなものも必要であるが、アレクセイには魔法がある。
「『水よ』『火よ』」
「ほわあ」
リュドミーラは生まれて初めて見た魔法に、いつもの『❤』も忘れて見入っている。
鍋に水を入れ、薪に火を着けたあとは、食材を出していく。
まずは細かく刻んだキノコを鍋にいれる。
鍋が沸くまでの間に、スケッチ用の画板をまな板に流用して食材を切っていく。
ニンジン、ゴボウ、ジャガイモ。
どれも自家や近隣の家で採れたものである。
沸いた鍋にそれらと一緒に乾燥肉を放り込む。
「リューダのご飯は?」
「ちょうだい❤」
「あげるのは良いけど、食器がないよ」
「同じのでいいでしょ❤❤❤❤」
リュドミーラは小さなカバンに詰め込まれたサンドイッチを、夕食に回そうと考えているようだ。
結局食べきれなくて怒られる未来が見える。
ともあれそうして完成した食事を、一緒に食べていく。
器を交互に取って一口ずつ、硬い黒パンを浸してほぐしつつパクリ。
次第に面倒になったリュドミーラはアレクセイにあーんと食べさせてもらうように。
そんなこんなで食事が終わって、食器などを洗った後、食休みの時間。
アレクセイは魔力回路構築の訓練をしている。
こうした瞑想は自然環境下である方が効果的だというのは、前世の頃から言われている。
おそらくは魔素消費者が少ない、いわゆる魔素が濃い環境下の方が、干渉力が上昇するのだろうと言われている。
最初のうちは隣で見様見真似をしていたリュドミーラは、すでにアレクセイに寄りかかって夢の世界に旅立っている。
適度な運動をして、お腹いっぱいになった子どもとしては正しい反応である。
アレクセイとしても眠気を感じないではなかったが、いかにここまでなら安全であると判断されたとはいえ、森の中で子どもふたりが寝こけているのは不用心であろうと、瞑想を続けている。
しばらくそうしていると、近くで動く気配を感じる。
そちらに目を向けると、うっすらと色のついたプルプルしたものがいた。
スライムである。
この世界のスライムは実は凶暴とか、物理無効で対処法がないとかいった存在ではなく、敵対という概念すら存在しない無害な生き物である。
むしろ、各家庭に最低一、二体は飼われているほどである。
その活動場所は主にキッチンやトイレなど、といえば概ね理解できよう。
自然環境下においては水場を中心に生息し、時に生き物の死骸を分解して大地に還したり、時に野生動物の水筒になったりしつつ、自然界の掃除人とでも呼ぶべき、環境を整える役割がある。
そんなスライムが一体、明らかにアレクセイを目標にしてにじり寄って来ている。
(……あ、魔力に寄って来てるのか)
一瞬なんだろうと考えていたアレクセイであったが、すぐに合点がいった。
そもそもスライムが動物の死骸などを分解するのも、実は単に栄養を得るためではなく、そこに含まれる魔力を回収するためというのが定説である。
近年の研究では、スライムが回収した魔力は錬成前の魔素にまで分解されることが判明している。
つまり、彼らは魔素・魔力という面においても掃除屋としての働きをしているということである。
周囲の魔素を取り込み、体内で魔力に錬成して放出しているアレクセイの行為は、そんな彼らを引き付ける行動であったのだ。
(…………)
なんとなく気の向いたアレクセイは、錬った魔力を細く伸ばして、カーブを描きながらスライムの前まで持っていく。
スライムはその魔力のヒモを辿るように、右に左に曲がりながらアレクセイの元へと近づいていく。
そうして最後はアレクセイの手元まで辿り着いたスライムは『もう終わり?』とでも言うかのようにアレクセイの手に身体を擦り付けてくる。
その感触はプルプルとしていながらそれなりの弾力があり、ひんやりとしているが手は濡れない。
アレクセイはその感触を楽しみながら少しずつ少しずつ魔力を放出する。
しばらくそうしていると、何かが繋がるような感覚があった。
(もしかして、従魔契約?)
従魔契約。
それはアレクセイの前世の頃から存在する、魔法に近しい技術。
基本的には特定の家系が秘伝として伝える技術なのだが、時に何も知らない人間が魔獣などの魔力を操る生物と心を通わせることがある。
それを主軸にした物語もたくさん生まれているほどで、一般的に従魔契約者はテイマーなどとも呼ばれている。
その契約が成ったののだと、感覚的に理解した。
「まあ良いか。よろしくね」
アレクセイがそう声をかけると、応えるようにプルプルと震える。
その後、目覚めたリュドミーラにスライムを紹介し、帰路につく。
行きに見逃していたものをスケッチしたりしつつ、日が暮れる前には村に帰ったのだが、リュドミーラを森に連れて行ったことをしっかりと怒られるアレクセイであった。