家に戻り、装備を整える。
スーツを脱ぎ、撥水性のシャツとズボンに着替える。
腰にはミスリルカタナ。海の向こうの鍛冶師から伝わった技術をベースに作られており、中心に柔らかい鉄、周囲にミスリルを配置し粘りと硬さと強さを生み出している。ヴァードの錬金術師と鍛冶師の技術の融合の結果出来上がった武器だ。
魔術を使う関係上、鉄よりもミスリルのほうが望ましい。
黒く染め、手の甲に発動具であるオーブを埋め込んだグラブをつける。
顔全体を覆う黒いのっぺりとした仮面をつける。魔道具の一種で視界を遮らないのに穴はない。更に声も変えることができる。顔、声を覚えさせないための装備だ。
普段使っていない安物のレインコートを羽織り、雨の中飛び出す。
こういう高速移動のときだけは〈
人生は選択と後悔の連続だ。
だが選択に対し後悔しないように努力することもまた人生なのだ。
彼らのパーティに示した地から少し北にずれたところに集落を見つけた。
雨は気配を消す。鬱陶しくもあるが、利点でもある。枝振りの良い木の上に潜み、集落を観察する。
雨は土属性のゴブリンにとって不快なもの。小雨程度なら我慢もするのだろうが、これくらい降っていると最低限の見張りすら引っ込む。
その上集落の大きさはさほどでもない。ケヴィンたちがたどり着いたタイミングに合わせて仕掛ければいいだろう。
街道から気配がこちらにやってくる。おそらくケヴィンたちだ。
ドロテーが小さな音を立てつつこちらにやってきた。フードを被っていないのは耳を隠したくないからだろう。雨は彼女の喉をつたい、レインコートの中に侵入しているはずだ。
体の小さな彼女にとっては体温を奪われることは厳しいはず。しかも人族に近い方の獣人族だ。保温については人族とかわらないにもかかわらず、任務のために感覚遮断を是としない。素晴らしい。
ゴブリンたちが踏み固めた道を辿ってきたようだ。集落の近くのブッシュに潜み、観察をしているのが見える。
いい腕だ。前日が雨で今日が晴れていたならば私も見つかったかもしれない。
雨音に紛れてドロテーが下がっていく。
ミスリル刀を抜く。オーブの付いたグローブで刃を撫でる。〈
左手を胸に当てる。〈
優位属性で防御した場合は属性反応が起こり攻撃を押し返すための小さな爆発を起こす。この爆発は金属鎧なら大したことはないがペラペラのシャツで食らったらこちらもダメージを受ける。
複数属性を与えれば属性反応は抑え込めるが、ゴブリン相手に複数属性付与はやりすぎだ。維持する
思考が逸れた。魔力を練る。個人に対するデバフは即時発動ができるが、領域に対しての即時発動は範囲が狭すぎる。集落全体を覆うには時間が必要だ。
ケヴィン一行の気配が近づいてくる。ギリギリ間に合うかどうか。あるいはゴブリンの気配のない外周付近を除外して発動させるかを考え、除外発動を選択。〈
三十秒間の弱体化。あらゆるスキル、行動の発動を阻害する。強力なデバフだ。ごっそり魔力を持っていかれる。
アイテムバッグから魔力ポーションを取り出し、飲む。口の中に苦味が広がる。
「おるぅあ!」
ケヴィンの気合とともに大盾で貧相な集落の門を叩く。二度、三度。
圧に耐えきれず門扉が倒れる。一行がなだれ込んだ。
雨のゴブリン集落は乱戦になりにくい。水が苦手なゴブリンは雨の中に飛び出すことを躊躇する傾向にある。それでもファイターであれば飛び出してくる。
一方的な蹂躙。いい手際だ。デバフで出足を挫いたかいがあったというものだ。
先頭でゴブリンどものヘイトをかき集めていたケヴィンが無言で吹き飛ばされた。
続いてホルガーとマルグレートが吹き飛ばされる。
マルグレートが飛ばされるとき、赤い線が見えた。〈
戦線が一気に押し下げられ、スカウトのドロテーがゴブリンに囲まれる。まずい。
木から飛び降りながら〈
〈
「助太刀する!」
刀を振る。〈
〈
見えた火線をたどる。いた。
上位種のゴブリンウィザード。私のスキルを知られるわけにもいかないので無詠唱で〈
ドロテーの前に〈
「今のうちに立て直せヒーラー!」
〈
「そのまま死んでおけ」
オーバーキルなのは分かっているがさっさと片付けたいために連撃の〈
これで刀の〈
「うわ!」
ドロテーが驚いた声をあげた。振り返ると前線を立て直した一同がゴブリンを撫で斬りにしていて、暇だったスカウトのドロテーが私を見ていたようだ。
「立て直せたな。ではさらばだ」
「あ、ちょっと!」
ドロテーの言葉を無視して〈
自宅で再びスーツに着替えてギルドへ戻る。
「おかえりなさいませ、支部長」
リーゼロッテ君がやれやれとでも言いたげに微笑しつつ話しかけてくる。
「トラブルは多少あったが、解決できたのでね。仕事も溜まっているし」
錬金術師が最近作り上げた万年筆を取り、書類にサインをし、決裁する。
「ああそうでした。アメリアから支部長にお話があるとのことです」
「アメリア嬢から?」
「ええ。それと一つ質問してもよろしいでしょうか?」
「ん?」
リーゼロッテ君の声のトーンが低い。こういうときは微妙に怒っているときだ。
「なぜ、私は君で、アメリアは嬢なのですか?」
リーゼロッテ君は微笑んでいるものの、目は笑っていない。美人がそういう表情をするとなかなかに迫力がある。
これならゴブリンウィザードやゴブリンキングの群れに突っ込んでいったほうが楽だ。
「なぜ……か。アメリア嬢に比べればずっと親しい関係にあるから、だろう」
「親しい、ですか」
リーゼロッテ君の表情が柔らかくなる。
「ああ。十三歳からずっと一緒に仕事をしていて成長していく姿を見ている。そうだな……姪っ子のようなもの、か」
笑顔が消えた。視線が鋭い。しばらく沈黙が支配する。
その沈黙を破ったのはリーゼロッテ君の大きなため息だった。
「そうですか、わかりました。もう少し頑張ることにします」
リーゼロッテ君の表情が柔らかくなった。というか若干の
「頑張る?」
「こちらの話です。アメリアとのミーティングはどうしますか?」
「窓口業務が終わり次第こっちに来るように伝えておいてくれ」
「承りました」
リーゼロッテ君はつけペンでサラサラとメモを書く。
「ふむ……今度万年筆でも買いに行くか」
「え?」
「不便だろう、つけペン。一度万年筆を使うと戻れん。それくらい便利だ」
「一応、お給金は良い方だとは思うのですが、それでもなかなかに高価ですよ」
秘書の給与が月に金貨四十枚。万年筆は一番下のラインで金貨三十五枚前後というところだ。安物ですら一ヶ月の給与が飛ぶ。
「気にするな。仕事の効率が上がるほうがいい」
「気にしますよ」
「……話が噛み合わんな。買うのは私だ」
「はい?」
いつも凛としているリーゼロッテ君のぽかんとしたレアな表情を見た。
「いつも良くしてもらっているからな。たまにはいい格好をさせてくれ」
「え、あの、はい?」
慌てているリーゼロッテ君は年齢よりも幼く見えた。
夕刻、雨に濡れたケヴィンたちが薬草及びゴブリンの討伐報酬を受取に戻ってきたとの連絡が来た。執務室を出て窓口が見える位置に潜み、様子を見る。
「黒い仮面の男、ですか?」
今回の受付はイザベル・イェーネ夫人だ。出産育児で冒険者を引退したが、子どもが独立したというのでギルド職員としてパートタイムで働いている。
冒険者時代はBランクまで行ったというなかなかの女丈夫である。苗字持ちの大店の旦那の護衛任務で見初められて猛烈なアタックの後婚姻に至ったという大恋愛であったな、と懐かしい気持ちになる。
あの護衛任務をアテンドしたのは私だった。
「そうだ。ゴブリンウィザードを即座に処理できるのとなるとかなりの使い手で数も限られるだろう」
「聞いたことはありませんね」
イェーネ夫人は事務的に答えた後ゴブリンの耳を数え、書類に記入し、金貨を十枚取り出す。
「納品完了です。ウィザードもいたので金貨十枚になります」
「ウィザードは金貨何枚なんだ?」
「四枚ですね」
ケヴィンは複雑な表情で金貨を受け取る。
「……わかりましたよ。ギルドとしても登録のない冒険者が所轄地域で勝手な行動をしているというのは看過できません。調査します。それでいいですか?」
イェーネ夫人の言葉にケヴィンはコクコクとうなづく。
「無事に戻られたようですな」
そこへ割り込んだ。
「支部長! 先程は、その……」
「構いませんよ。力ある冒険者がヴァードに居を構えるというのは我々ギルド側からすれば歓迎すべきことでありますから」
私の登場にドロテーが反応する。
「あ!」
ドロテーは私に抱きつき、顔を胸に擦り付けてくる。
「この匂いだ! あのときの!」
ドロテーの言葉にケヴィンが真顔で私を見る。
「ドロテー嬢、どんな香りですかな?」
抱きつかれた小柄な獣人の頭をなでながら質問する。
「レモンとベルガモットとシトラスとシナモン、リンゴ! あとからバニラとムスクにレッドローズ、チーク! 素敵な匂いだから覚えてる!」
「ああ、それは最近こちらにきた錬金術師で調香師のエルセ・ストラウケン師が売り出した香水ですな」
「……香水?」
ドロテーは不思議そうに私を見上げる。つい頭をなでてしまうと、彼女は目を閉じてうっとりしている。
「ええ。大人の嗜みとして王都でも流行していたものですね。最近はヴァードにもそういった調香師の方たちが移住してきたのですよ。私は人と会う仕事が多いものですからね。香りというものはその人の印象を変えるほどの力があります。そういえば上位の冒険者の間でも流行の兆しがありますね」
「なんで、そんな……」
ヨゼフィーネのつぶやきに答えておく。
「人と同じ香りがするというのはドロテー嬢のような感覚の鋭い人への対策なのかもしれませんね」
ドロテーは私を見上げ、首を傾げる。
「香りの暴力でもとの体臭をマスクするんだそうですよ。犯罪にも使われそうなので注視はしていますが、ギルドは治安組織ではないので、まあそれは余談ですね」
「ほら、ドロテー、支部長が困っておられるぞ」
ホルガーがしゃがみ込んでドロテーの肩に右手を置く。ドロテーは渋々私から離れる。
「んー、でもあの人と同じ匂いだと思うんだけどな」
「あの人、というのは先程の黒マスクの男ですか?」
「うんっ!」
ドロテーは元気にうなづく。
「私はこのヴァード支部に就職して二十年以上になります。事務仕事しかできない、冴えないおじさんですよ」
ドロテーは私の周りをぐるぐる回りながらうんうん唸っている。私の言葉を疑っているようだ。
「くちゅん!」
そのドロテーがかわいいくしゃみをした。
「ほら! 雨に濡れたんだから風邪引くわよ。帰ってお風呂入ろう!」
マルグレートがドロテーを抱えあげ、肩に乗せる。
「あー、もう! あたし子どもじゃないってば!」
「ま、諦めろ。マルグレート姐さんにとっちゃドロテーは娘みたいなもんだ」
オットーが肩をすくめて答えると他の四人はどっと笑う。改めて思う。彼らはいいパーティだ。
「それではお気をつけて。またのご利用をお待ちしております」
丁寧な礼を送ると、ドロテーがマルグレートの肩の上でブンブンと手を振った。
「またね、しぶちょー!」
彼らが出ていくと後ろでイェーネ夫人が盛大なため息を付いた。
「どうなされましたかな?」
「助かりました。しつこかったんですよ。黒仮面の男、黒仮面の男って」
「それはそれは……災難でしたな」
後ろでリーゼロッテ君が咳払いをしている。
「あれはしばらくこだわるでしょうね。私が受け持ちますよ」
「助かります」
丁寧な礼をして、窓口から執務室へと戻った。
「ひどい人ですね、支部長」
耳元でリーゼロッテ君が囁いた。ため息で返事をしておいた。