夕刻、書類仕事が山積みの執務室で格闘していた。リーゼロッテ君がコーヒーを差し出してくれる。
「ありがとう」
「もう少し執務室に詰めていただけるとありがたいのですけどね」
コーヒーをサーブしながら苦笑を浮かべるリーゼロッテ君を見上げる。
「締切までには間に合うように仕事をするさ」
「そこは、信用しておりますけども。秘書としてはどこかにフラッと消えられると色々困るわけです。主に面会希望の人たちの調整で」
リーゼロッテ君の愚痴をさえぎるかのように執務室のドアがノックされた。
「はい」
ドアに顔を向けて返事をする。
リーゼロッテ君はすっと自分の席に下がっていった。
「アメリアです。失礼します」
アメリア嬢が声をかけてきてから中に入ってくる。
「どうされましたかな?」
「その……午前中はありがとうございました。お礼が遅れまして申し訳ありません」
「ああ、気になさらず。あれは難しい案件でしたし、あの対応は私の職権がないとできませんから」
「それでも、その」
アメリア嬢はそこで一旦止まる。次の言葉を待つためにじっと彼女を見つめる。
アメリア嬢の額に薄っすらと汗が浮き出てきた。ああ、そうだな、と自らの容姿を思い返し、視線を書類へ落とす。
書類を書き、決裁。次の書類、そしてまた次。四枚目の決裁を終えたがアメリア嬢は動かない。リーゼロッテ君の小さなため息が聞こえた。視線を彼女に向けるとアメリア嬢を見ろと言いたげに手を小さく振った。
視線をアメリア嬢に向ける。
彼女は赤い顔をしていた。これはまずい。
非常用ポーションの詰まっている引き出しを開ける。どれくらい体調が悪いのかわからないため、手持ちの中で最上位の状態異常回復ポーションを引っ張り出す。
倒れる前にたどり着かねばならん。〈
「きゃあ!」
かわいい悲鳴とともにバランスを崩すアメリア嬢を倒れないように抱える。
彼女も驚いたのだろうか、私にしがみついている。
「し、支部長⁉」
アメリア嬢の声が私の胸のあたりから、そしてリーゼロッテ君の盛大なため息が後ろから聞こえた。
「アメリア嬢、かなり顔が赤いぞ。具合が悪いのではないか?」
私の言葉にアメリア嬢はガバッと身を起こし、離れる。
「だだだだ大丈夫です。それでは失礼します」
脱兎のごとく立ち去っていった。
「あ、その、ポーショ……」
「バカですか、バカですね、本当に」
すぐ後ろからリーゼロッテ君の声がした。
「はぁ、なんで、なのでしょうかね」
リーゼロッテ君のつぶやきを聞きながら振り返ると睨まれた。美人にやられるととても怖い。
「何が、なんで、なのかな……?」
「こちらの話です。お気になさらず」
リーゼロッテ君はそう言うとついっと横を向いて自分の席に戻ってしまった。
少しだけ残業をして、夜の街へ繰り出す。
一人暮らしの中年男の夕飯は、どこかの酒場の適当なツマミと酒と相場が決まっている。
ふらふらと歩き、最近冒険者たちの間で話題になった
東方諸国で信仰されている宗教の聖堂の名称だとは聞いた。それを酒場の名前にするのだからなかなか度胸のある話だ。とはいえここいらとはあまりにも距離が離れているために関係はほぼない。
店主はおそらく音の響きから面白がってつけたのだろう。
店はすでに人が集まっており、外までガヤガヤとした声が聞こえる。中に入ると、若い給仕の女性が声をかけてくる。
「いらっしゃい、お一人?」
「ああ」
店内は立ち飲み用のテーブルが七、座って飲める大テーブルの周りにはざっと二十ほどの席、カウンター席が六席。ほぼ満員で給仕の女性が五人いた。
「あー……っと大テーブルも空きがないねえ。立ち飲みの人たちと相席してもらえるか聞いてくるよ」
「いや、それでしたら日を改めて」
「あーしぶちょーだー!」
先程別れた一行が立ち飲みテーブルを囲んでいる。声を上げたのはドロテー嬢だった。手を上げて挨拶する。そこに先程の給仕が向かい、二言三言交わす。
給仕がこちらを見て手招いた。
「さっきぶりーなのー」
ドロテー嬢は真っ赤な顔で両手で抱えたコップからちびちびと飲んでいる。
「……この子、何歳なんだね?」
「詳しくはわからん。旅の途中で襲われた両親の下に隠れていたのを俺たちが保護した。ありゃあ、もう十二年になるか」
ホルガー殿がドロテー嬢の頭をなでる。
「そうだねえ。そんなもんかな。あたしらもそろそろ引退かねえ」
マルグレート嬢がジョッキを空にしてから言う。
「いやいやいやいや、姐さんが引退だなんて」
オットー殿が首を振りながら苦笑を浮かべる。
「若いときみたいに体は動かないんだよ、もう、ね」
「すみませんけど、注文してもらえませんかね?」
しんみりしていたところに給仕の女性がイライラしながら声をかけてきた。
「失礼。エールとヴルスト、あとフラムクーヘンを」
「お客さん、初めてだろ? なんで知ってるんだよ」
「有名ですからね。種類はなにが?」
「一種類しかないよ。日替わりでマスターの気まぐれさ」
「じゃあ、それを二人分で」
「乾杯!」
まずエールが届いたところでケヴィン殿に無理やり乾杯させられた。チビリ、と飲む。
「……悪くない。というより美味い」
わざわざ冷やしてあるのも喉越しをよくしているのだろう。これは危険な飲み物だ。
「あいよ、ヴルスト」
炭火で焼かれた大振りなヴルストが皿に二本とペーストが塗られたバゲットが一つ。ヴァードにある酒場では定番料理である
「この白いのが仔牛肉、赤いのは豚肉に香辛料が混ぜてあるよ。白いのにはそのマスタードつけて、赤いのはそのままで。バゲットに乗ってるのは豚レバーだ」
白から食べる。ナイフで縦に切れ込みを入れ、皮をむく。軽くマスタードを付けて口に放り込んだ。
エールを流し込む。
あっという間にエールがなくなった。ジョッキを掲げると新しいジョッキがやってくる。
「なるほど、ね。話題になるわけだ」
バゲットをかじる。無限に飲めそうな味だった。
「フラムクーヘン、おまちどう」
薄く作った小麦の生地の上にサワークリームを塗り、薄く切った玉ねぎ、パプリカ、刻みキャベツに厚めのベーコンを乗せて焼いてある。
おかげで夕飯に困ることはない。
「ね、ね、しぶちょー、あたしも食べていい?」
ドロテー嬢が鼻をひくひくさせて聞いてきた。
「ああ、どうぞ」
一枚渡してやると嬉しそうにかぶりついた。
「おいしいねえ」
「え、まじで? んじゃ俺らも頼もうか」
オットー殿が手を上げ給仕を呼ぶ。夜はまだこれから、なのだろうな、とふと思った。
ジョッキを四つ空けた。
「旨いエールだな、これは」
給仕に空いたジョッキを渡しながら言う。
「ああ、これね。マスターの奥さんが作ってるんだよ。他のエールより温度を低めにしてじっくり発酵させるから旨味が深いって言ってたよ」
エールを自家醸造。とんでもないことをさらっという。ヴァードでは
こんなにあっさり取れる情報の裏を取っていない時点で調査部の査定にマイナス。調査部長ボニファティウス・ユンガーに小言決定。
新しいジョッキを受け取ったところでドロテー嬢が私に寄りかかってくる。
「ねえねえしぶちょー。たのしい?」
「ああ。ドロテー嬢のような可憐な女性にこのようにされて楽しくないなどと言えましょうかな」
「んふー」
ドロテー嬢は私に抱きついて顔を胸に擦りつけてくる。
ホルガー殿は眉間にシワを寄せ、ヨゼフィーネ嬢は微笑を浮かべて私を見る。
そのホルガー殿がジョッキを静かにおいて、私をじっと見つめる。ドロテー嬢が新しく届いたエールと
そこでホルガー殿が切り出してきた。
「失礼ですが支部長。ご結婚は?」
「お恥ずかしながら仕事一筋でしてね。充実はしておりますが、ね」
眉間のシワが深くなった。
「お年は?」
「四十二ですな」
「私と同じですか」
ヨゼフィーネ嬢がそのホルガー殿の肩に手を載せる。
「ドロテーがかわいいのはわかるんだけどね。いつまでも子どもじゃいられないのよ?」
「だが! だが!」
「人はいずれ老いる。それは当然よね。ホルガー、あなた、まだ現役よね?」
「もちろん!」
「なら同い年の支部長だって現役でいいわよね? 私達冒険者は自分の命を賭け金にしてる。だからこその報酬。それは理解してるわよね?」
ホルガー殿は頷く。
「女性にはタイムリミットがあるのよ。姐さんはもう諦めてしまったけれども、代わりにドロテーの幸せを願っている。姐さんにとっての娘だから」
「あー、すまないがね」
無粋を承知で割り込む。
「その話は私がいないところでお願いしたい」
私の言葉にヨゼフィーネ嬢とホルガー殿が固まる。
「幸いにして、ドロテー嬢もマルグレート嬢もエールとポメスに夢中だったからこちらに意識はないようだ。君たちの意思がまとまってから相談してくれたまえ」
手を上げ給仕の女性を呼ぶ。
「はい、なんでしょう?」
「とりあえず今の段階でのこのテーブル分のお会計を」
私の言葉にマルグレート嬢とオットー殿とで飲んで騒いていたケヴィン殿が慌てる。
「いや、それは」
「厄介な集落を落として頂いたんですよ。それくらいは」
人生は選択と後悔の連続だ。
だからこそ手からすり抜けたものを拾いたいと思うのは業なのだろう。
だが、選択の結果できあがってしまった人格は強固であり、難しい。
全く、贅沢で傲岸な悩みだ。人としてまだまだなのだろう。
春の夜風に吹かれながら、家路を急いだ。
◇ ◇ ◇
その頃に〈
天才だと言われはじめた頃の記憶。そう、妹のジュリーはまだ母のお腹の中だったころ。姉のネリーは私の才能に大喜びだった。父マーカス、母シーラに愛されていた記憶もある。
エセルバートは私を冷たい視線で見下ろしていた。いや、これは記憶ではないな。この頃の私にはエセルバートの悪意がわかっているはずもない。世界は私を愛していると思っていた頃だ。
「ハワード様!」
遠くからアイリスの声が聞こえる。アイリスは私の十歳上、私のお世話係をしていたメイドだ。彼女は私を愛し、守ってくれていた。そう、成人の儀を迎えるまで彼女の庇護は続いた。
私は手酷い裏切りを彼女にしてしまうことになる。
場面が変わる。六歳。妹のジュリーはもうすぐ三歳になる頃。父の治める土地であるフーベル領ポルタの街。初夏の日差しの中ジュリーの手を引いて歩いていた。
「おにいたま、どこいくの?」
「アイリスの誕生日が近いんだ。ジュリーと同じ日だからね」
「んふー、あいりすとおんなじひー」
「そう。だからプレゼントを買いに、ね」
「わーい!」
たぶん、よくわかっていない。でも僕は彼女の頭をくしゃっと撫でた。
「ジュリーもアイリス好きでしょ? 一緒に選ぼう。そのあと、ジュリーのプレゼントも買うよ」
「ほんとう?」
「ああ。お兄様は嘘つかないよ。何にしようか?」
「あのねあのね、あいりすとおそろいのりぼんがいいの!」
アイリスが普段遣いしているリボンは男爵家から支給されているものだ。それなりのものではあるものの男爵令嬢が付けるようなものではない。
「んー……ジュリーはまだちょっと髪の毛が短いから、アイリスと同じリボンは難しいかな」
「えー」
不満顔で膨れていてもジュリーは愛らしい。
「そうだな、飾りのあるカチューシャにしようか。ペアになっているようなものなら、アイリスとお揃いに見えると思うよ」
カチューシャなら飾り細工のランクで貴族と平民の差が付けやすい。身分制度は面倒だが社会を構成する上で都合の良いシステムであり……。
幼年期の記憶と自分の経験が混ざっている。
「おにいたま、いなくなっちゃうの?」
「うん?」
「エセルが言ってたの。夏からいなくなっちゃうって」
「ああ。学校が始まるからね。全寮制なんだ」
この頃は
故に街では小さな英雄扱いだった。おそらくは幸せの絶頂期だった。
「ぜんりょーせー」
「そう。みんなで住むんだ」
「じゃあ、じゅりーもいくー!」
「七歳になったらね」
「えー」
やはり不満げに膨れる。
「離れてたって家族だよ。大丈夫。大好きだよ」
ぎゅっと抱き締めた。
◇ ◇ ◇
目覚めは最悪だった。痛む頭を抱えながら水を飲む。
深呼吸をする。
頭痛がすっと抜けた。
いつからだろうか、
これは、私の選択への罰、なのだろうか。