あれから三日。今日は休暇だ。リーゼロッテ君も私の秘書である以上休みである。
前日、彼女に予定がないことを確認してから万年筆を買いに行くという予定をねじ込んだ。上司の横暴な要求だが、リーゼロッテ君はうなづいてくれた。
彼女は美しい。そろそろ年齢的に厳しいことになっているが、浮いた話はない、と盛大なため息とともに本人が断言している。なんとかしなければならないだろう。
いつものスーツ、銀縁眼鏡。プライベートでは黒の中折れ帽を被るようにしている。私の黒髪は街の人にとっては不吉の象徴らしい。だいぶ白いものが混ざってきたので気にしなくてもいいのかもしれないが、不快に思う人もいるかもしれないので念のため、だ。
スーツに合わせるとなるとどうしてもフォーマルな帽子にならざるを得ない。結果全身黒ずくめの男が出来上がる。
「さて、そろそろ時間だ」
彼女の指定で街の中心にある噴水広場で落ち合うことになっている。万年筆の開発者ハビエル・ソレ師が店を構える錬金通りまでは少し距離がある。
指定時間は正午。昼食でもとなるならば噴水広場はいいのかもしれない。
「少し早かったか」
噴水広場にリーゼロッテ君の姿はなかった。今日はいい天気だ。街路樹の影に入って噴水を眺める。
キラキラと陽光を反射し、輝く噴水を見てはしゃぐ親子連れがいる。子どもはまだ歩きはじめといったところか。よたよたと噴水に近寄り、手をブンブンと振り回し、体全体で喜びを表している。
子どもを見守る母親の笑顔になにか神々しいものを感じてしまうのは、私が……。
「すみません、支部長! 遅くなりました」
後ろからリーゼロッテ君が声をかけてきた。息が切れている。走ってきたのかもしれない。
「今来たところだ。気にしなくても」
振り返りながらそこまで言って言葉を失った。
白のタイトなニットワンピース。ふくらはぎの中ほどまでを覆ったそれは彼女の体のラインをはっきりと示していた。胸元はだいぶ深く切れ込んでいる。慌てて視線をそらせた。
「それでは支部長も遅刻したことになりますよ?」
リーゼロッテ君が詰め寄ってきた。ふわりといい香りが流れてくる。
「言葉の綾というものだろう」
彼女は私の左腕に自分の腕を絡める。柔らかいものが当たる。
「リリリーゼロッテ君⁉」
「なんですか?」
「その、だな、当たって」
私の慌てた様子にリーゼロッテ君は微笑む。
「せっかくのデートですもの。名前でお呼びしても?」
私はデートとは思っていなかったが、輝いているリーゼロッテ君の笑顔に対しその指摘を飲み込んだ。
「いや……そうだな。偽名で通してみようか」
気恥ずかしいために偽名で通すことを提案する。
「偽名、ですか?」
「私はそこそこ名が売れている方なのですよ。独り者なのでね……」
リーゼロッテ君はクスクスと笑う。
「そうですね。上の方の人達はみな世帯を持っておりますものね。どんなお名前で?」
「そうだな……ハワード、としようかね」
すでに捨てた名前だが、それに未練があるのはやはり後悔しているからなのだろう。
「ハワード……ですか。わかりました。では私はどうしましょうか……ハワードというと、ギレン連合王国フーベル領の名前ですよね」
彼女の指摘にドキリとする。
「じゃあ、アイリスにしますね」
鼓動が跳ね上がる。偶然だろう。彼女の経歴には彼の地との接点はないはず、だ。
彼女は腕を組んだまま下から見上げてくる。
右中指でメガネのブリッジを上げ、表情を隠す。
「では、いこうか、アイリス」
「はい、ハワード様」
記憶にあるアイリスとは全く異なるのに、心臓が痛む。
「……なぜ、様付き、なのだね? 君はデートだと言っただろう」
「なんとなくです。いいじゃないですか、ハワード様」
心がギリギリときしむ。
「そうか。まずは昼食でもどうだね?」
「ええ、お願いします」
おくびにも出さずに答えた。答えられたと思う、たぶん。
昼食は砂の味だった。何を食べたのかも覚えていないほどだ。
「ハワード様?」
リーゼロッテ君が首をかしげてこちらを見る。自分で名乗っておきながら勝手なものだ。
その瞬間にすっと
「いや、なんでもない。オフの時まで仕事のことを考えるのはよくないな」
子どもの頃の習慣がここで役に立つとは皮肉なものだ。
天才であると思われている生活は期待に沿わなければならず窮屈だった。今ならやり過ごせるのだろうが、子どもには過酷だった。ただそれだけ、だ。
微笑を浮かべ、彼女を見る。リーゼロッテ君の頬はほんのりと赤い。化粧でもしているのだろうか。
「あのときのハワード様ったら」
設定に乗ってヴォルフラムの昔語りをするリーゼロッテ君。コロコロと表情が変わり、仕事中の彼女とは全く異なる姿を見せる。
「あれはひどかった。いくら試作品だとはいえ、突然インクがすべて落ちるなんて。お陰で重要な書類五枚を書き直しだ。ハビエル・ソレ師に抗議したら『それも織り込み済みで試作品供与に応じたのだろう?』だからな。どれだけ書類仕事が面倒なのか錬金術師にはわからないのだ」
リーゼロッテ君が右手で口元を隠して笑う。揃えられた指は細くしなやかで、爪がピンクに輝いている。
自分ではないなにかが体を動かし、応じている。それをぼーっと眺める感覚。あの頃に飲み込まれる、感覚。
◇ ◇ ◇
ギレン連合王国の王都にある全寮制の王立魔術騎士研究支援機構付属高等教育機関初等部。通称、学校。その所属式には両親の参加が義務付けられている。まだ七歳の幼子がいきなり親元から離れるのだ。子どもたちは皆不安げな表情で並んでいる。
更にいうなら、一人の専属を連れていくこともできる。カーター家からは家令のエセルバートが私に付き従うことになっていた。アイリスを強く希望したのだが父マーカスの強硬な反対、消極的賛成だった母シーラの意見は却下された。
その両親は境界を接するハルト王国レトガー領オリバのベイトソン子爵の動きがおかしいためにポルタで軍務および執務に励んでおり、所属式は欠席の届けを出し、了承されていた。
この頃にはエセルバートが私を嫌っていることを薄々感じ取っていたのでかなり憂鬱だったのを覚えている。
保護者がまとまっている席は私の並ぶ列のすぐ隣だった。
「ほら、あれがフーベル領ポルタの」
「黒髪なの、珍しいわね」
「だからすぐわかるのよ」
「学校に来る前から狩りに出ていたらしいわよ」
「さすが田舎ね。子どもですら労働力なんて」
ヒソヒソと私に関する噂話がなんとなく聞こえ、陰口ならば本人に届かないようにすべきじゃないか、と思ったが、エセルバートと共にしばらく旅をしたストレスから引きこもって自動応答に任せていたためにその言葉は虚空に消えてしまった。
壇上に国王バーソロミュー・リオ・デール・アーベルソンが立つ。連合王国王は複数の国からの持ち回りで五年単位で変わる。官僚システムの上に乗ったお飾りが今のギレン連合王国の国王という立場だ。
故にこういった儀式の箔付けが彼らの主な仕事だ。その仕事は幸せなのかと、いや、ここまできたらこれは私の感想だ。
◇ ◇ ◇
自動応答から引き戻される。応答が処理できない事象が発生したのだろう。
「ハワード様、そろそろ行きませんか?」
「そうだな」
手を振ってウェイターを呼び、会計する。
なるほど、支払い。それは自動でやってはダメなことだ。自動応答は優秀だ。そうでなくては生き残れなかった。
ハビエル・ソレ師の店、
「おやおや、珍しい。ヴォルフラムが女連れで来たぞ」
入り口のとまり木に捕まっている極彩色の鳥が甲高い声で告げる。
「なんだって!」
ガランゴロンと大きな鐘の音。これは奥の研究室についているドアベルだ。そこからボサボサの赤い長髪をなびかせたローブ姿の女性が転がり出てくる。
「おおおお! ついに結婚するんだな! ヴォルフラム!」
「しませんよ」
私がそう答えると、左手を組んでいたリーゼロッテ君の爪がギリギリと食い込む。リーゼロッテ君を見ると、微笑んでいる。が、目は笑っていない。こういうときのリーゼロッテ君に逆らうと大変なことになるのは分かっているが、とはいえどう対処したものか。
「支部長、この方は……?」
「そういえば初対面か。対外的には、そうだよな」
「あー……失敗したな。えーと、リーゼロッテさん。あなたとは何回かお会いしてますが、この姿では初めてですね。ハビエル・ソレです」
「……え?」
リーゼロッテ君が固まった、食い込んでいた爪が戻る。
「普段は変身の指輪を使って男に見せかけてるからね。錬金術師でそこそこ成功してると恨まれやすくてね。ハビエルも偽名だけど、まあ本名は勘弁してね」
偽装しろと言ったのは私だ。だから彼女の本名も知っている。
ハビエルもちゃんと整えればかなりの美人なのだが、どうにも研究一筋で最低限の身だしなみすらも後回しにしてしまう。ようはいろいろ
「ヴォルフラム、結婚しなさいよ。おねーさんは心配ですよ」
「……ハビエルのほうが年下だが、おねーさんとは?」
「んもう、そういう気分なだけよー。そういうところがダメな人なのよねー。リーゼロッテさん、大変よぉ?」
リーゼロッテ君はハビエルに軽く会釈する。
「ええ、わかっておりますわ。ところでハビエル師、あなたはご結婚は?」
「もう懲りたわ。二回もしたから充分よ」
「あれ、をカウントするか」
私のつぶやきにリーゼロッテ君が反応する。
「あれ、とは?」
「前の旦那の追跡をかわすために彼女の戸籍をどうにかしなければならなくてな。一度私と結婚して離婚している」
「あれねー、お役所の人目をパチクリさせてたわよねー」
「笑い事ではないぞ、まったく。婚姻届出して婚姻税払って住民登録終わったら離婚届出したからな。戸籍担当の職員の笑顔が凍りついたぞ」
「いやほんと、ヴォルフラムには感謝してます」
「それは……」
リーゼロッテ君が私を見上げてつぶやく。
「ギルドは秩序の番人ではあるが、法の番人ではない。法律上許されている処理だ。問題ない」
「問題だらけです! その歳で独身でさらに戸籍に傷がある! バカですか!」
「そうしなければ、彼女が殺されていたからな。古くからの数少ない友人だ」
そもそも大きな借りがある。彼女に返しきれているかどうかは疑問だ。
ハビエルはガシガシと頭を掻くと大きなため息をつく。
「まったくもってね。あたしが『そのままにしとこうか?』って聞いたら『君の人生は今始まったばかりだ。私のような人間に縛られる必要はない』だったかしらね」
「……やめろ」
ハビエルの言葉に羞恥心が刺激されていく。顔が紅潮しているのがわかる。見上げていたリーゼロッテ君から何かを感じ、見下ろす。
リーゼロッテ君は目を見開いてから、クスクス笑ってきた。
「支部ちょ……ハワード様らしいですね」
「それ、まだ続ける?」
リーゼロッテ君はくすくすから本格的に笑い出した。
「……ハワードって、なにやってんのよヴォルフラム」
「一応、有名人なんでな。偽装だ偽装」
「へぇ、そう」
ハビエルの表情が固くなる。彼女は
「んで、リーゼロッテさんはなんて名乗ってたの?」
「支部長の提案してきた偽名がギレン連合王国フーベル領風だったので、合わせてアイリスって名乗ってました」
ハビエルは完全に固まる。彼女から大きなため息が出てきた。
「本当に、何考えているのよ、ヴォルフラム」
「リーゼロッテ君の提案だったからな。受けるしかあるまい」
「バカですわね、ハワード様」
ハビエルは呆れたようにそれだけ言う。
「でも……一日その名前で過ごしたんだ。ふぅん」
ハビエルが微笑む。目礼を返した。
「んで、ここには何の用で来たのよ? デートには向かないわよ?」
「ああ、彼女に万年筆を見繕ってくれ。予算は……」
当初の目的を果たすのに二時間ほどかかった。女性の買い物はこんなものなのだろう。